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シミュラークルとシミュレーション

Simulacra & Simulation

 シミュラークルとは、語源的に「表象、イメージ」の意であるラテン語「simulacrum」に由来し、一般的には現実を別の何かで置き換えたものを意味する。プラトンの存在論において、イデアに劣る模倣を、さらに模倣するものとして望ましくないとされたシミュラークルを、ジャン・ボードリヤールは著書『象徴交換と死』(1976)および『シミュラークルとシミュレーション』(1981)において、それがたんなる模倣の模倣ではなく、現実の記号化の操作であるとし、その重要性を示した。

 シミュラークルの歴史的発展は、「前近代」「近代」「現代」における価値法則の変動に対応する。

 ルネサンスから産業革命までの「前近代」における価値は、自然および神の恩恵として生じる「自然的価値法則」にしたがうものであった。この時代のシミュラークルは「模造」である。封建的秩序がブルジョア的秩序によって解体された「前近代」では、それまで特定の階級に拘束されていた記号が多くの社会階級で競争的に扱われ、模造品、あるいは偽物が増殖したのである。

 産業革命時代を迎えた「近代」における価値は、労働によって生産される「商品的価値法則」にしたがうものであった。この時代のシミュラークルは「生産」である。前近代的な封建的秩序の身分や地位による制約の経験とは無縁な「近代」において、自然らしさではなく人工的な複製技術そのものが発達し、原理的にオリジナルとコピーが同一となる無限に複製可能な生産品が、機械制大工業によって大量生産されたのである。

 そして、1970年代以降の「現代」における価値は、記号のコードに基づく差異の変調、すなわち「構造的価値法則」へと移行した。この時代のシミュラークルが「シミュレーション」である。近代的な労働や生産が、消費やサービス、あるいはコミュニケーション等の非生産的労働と代替可能となった「現代」において、価値は現実の対象から解放される。

 ものは、自然に準拠し模造され、機械によって大量生産され、そしていまやコンピュータによってデータと情報のコードの母型(=マトリックス)として機能する差異表示記号から産出されている。存在が無からつくりだされる0/1の二元的システムにおいて、基本となるのは、複製されるという事実ではなく、その差異の変調であり、シミュレーションは、記号と実在が等価であることに由来する表象(representation)ではなく、あらゆる表象の体系全体をシミュラークルとして包み込むのだ。

 シミュレ(simuler)とは、ないことをあるように見せかけることであるが、現代社会は、シミュレーション原理に基づくシステムとして決定的な転換を遂げた。この段階に至ってシミュラークルは、オリジナルとコピーの二項対立、すなわち原因と結果、起源と終末を問題としない、価値の全面的相対性、全般的置換、組み合わせのゲームとして不在の現実の記号となる。決して実在と交換せず、自己と交換するしかない、照合するものも、周辺もないエンドレス回路。シミュレーションとは「真」と「偽」、「実在」と「空想」の差異をなし崩しにしてしまうハイパーリアルなのである。それは、現実自体をシミュレーションとして消滅させてしまう次元にほかならない。

文=中尾拓哉

参考文献
ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』(今村仁司、塚原史訳、ちくま学芸文庫、1992)
ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(竹原あき子訳、法政大学出版局、1984)
塚原史『ボードリヤールという生きかた』(NTT出版、2005)