ART WIKI

千円札裁判

Thousand-yen Bill Trial

「千円札裁判」は、赤瀬川原平が制作した「模型千円札」をめぐって、アーティスト、美術評論家、美術ジャーナリストらが論陣を張って司法の場で芸術論を争うこととなった、日本現代美術史で特筆されるべき「事件」である。

 赤瀬川は「通貨及証券模造取締法」で起訴され、1967年東京地裁第一審で有罪判決、68年東京高裁で控訴棄却、さらに最高裁で70年に上告棄却され執行猶予つきで有罪が確定した。「千円札裁判」の法廷は、アーティスト側からするとパフォーマンス空間、展示空間であり、裁判そのものは芸術論争の舞台であった。

 赤瀬川が読売アンデパンタンで出会った高松次郎、中西夏之と結成した「集合体」である「ハイレッド・センター」は、路上、駅構内、電車内、高級ホテル、第一回東京オリンピックなどの「公的」な場所や物事を選び、それらの存在を特異に際立たせる直接行動としてハプニング、イベントを連続して行っていた。赤瀬川の「オブジェとしての紙幣」の制作も、貨幣という国家、金融、経済、文化の象徴への芸術的な介入であった。

 赤瀬川は、63年頃から千円札を印刷発注し始め、印刷千円札を用いたオブジェ作品や梱包作品を制作して読売アンデパンダンで発表した。また63年の個展「あいまいな海について」(新宿第一画廊、東京)の案内状の片面に千円札を原寸大で印刷して使ったり、テレビ番組出演では印刷千円札を燃やしたりした。またハイレッド・センターの「第5次ミキサー計画」展(1963)でも、200倍に拡大した千円札を克明に自筆で模写した作品《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)》などを発表している。

「千円札裁判」へと発展する事件の発端は、『赤い風船あるいは牝狼の夜』という小規模な反体制的な政治結社「犯罪者同盟」が63年8月に出版した書籍をめぐる騒動にある。これに掲載されていた図版が猥褻図書として取り調べられた。同書には赤瀬川の千円札の聖徳太子像拡大写真も掲載されていた。その捜査の際に、赤瀬川が制作した印刷千円札が司直の目に留まった。

 当時、芸術的にまで精巧と言われた偽千円札が出回る「チ-37号事件」があり、大々的な警察の捜査が行われていた。偶然この偽千円札事件と時を同じくしていたため、64年に警察の取り調べを受け、訴追されずに終結するかと思われたが、その数週間後に、「自称超前衛派の若い画家」の赤瀬川がチ-37号事件容疑者であるかのように扱った朝日新聞記事が出た。さらに検察による捜査再開があり、65年に印刷を請け負った印刷所の社長2名とともに起訴された。

 裁判では、特別弁護人として、美術評論家で詩人の瀧口修造、美術評論家の中原佑介、針生一郎が立ち、弁護側証人には、第一線のアーティスト、文化人が名を連ねた。だが赤瀬川が千円札ではなく「模型千円札」をつくったのだという主張や、表現の自由論、前衛芸術やパロディなどについての解説は、通貨の製造・販売を取り締まる「通貨及証券模造取締法」を根拠とする司法の論理とは平行線をたどったままだった。

 同様な事例を海外で探すならば、アメリカでは、86年から紙幣を精緻に描き、その描かれた紙幣を「額面通り」に交換するパフォーマンスを行ったJ.S.G.ボッグスが知られている。ボッグスもイギリス、オーストラリア、アメリカで偽造貨幣の疑いで逮捕や取り調べを受けている。またイギリスのストリート・アーティストとして名高いバンクシーも、10ポンド紙幣のエリザベス女王の肖像をダイアナ元妃にすげ替えて印刷した作品を制作している。このような貨幣を扱った作品を海外では「マネー・アート」と呼ぶことから、その領域で赤瀬川の「模型千円札」を見直すことも可能だろう。

 貨幣そのものも、電子化や暗号化技術が採用され、各国中央銀行発行以外の通貨が流通するようになったり、非代替性トークン(NFT)としてデジタル・アート作品が通貨のように取引されたりなど、前世紀との違いが際立つようになってきている。

文=沖啓介

参考文献
赤瀬川原平『オブジェを持った無産者:赤瀬川原平の文章』(現代思潮社、1971)
赤瀬川原平『桜画報大全』(青林堂、1977)
赤瀬川原平『東京ミキサー計画:ハイレッド・センター直接行動の記録』(筑摩書房、1994)
J. S. G. BOGGS(シカゴ美術館)
https://www.artic.edu/artists/47527/j-s-g-boggs