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「語りの複数性」展が提示する「見ること」とは何か?川内倫子×中川美枝子×田中みゆき

様々な語りのあり方と、その語りを紡ぎだす身体を想像する展覧会「語りの複数性」展が東京都渋谷公園通りギャラリーで開催されている。8名のアーティストが参加して「語り」を表現した同展のなかでも、川内倫子の写真絵本『はじまりのひ』を触図や「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」による鑑賞体験を経たテキストなどとともに展示している部屋は、本展を象徴する展示だ。この展示が目指したものを担当キュレーターの田中みゆきに聞くとともに、参加作家の川内と、本展覧会の取り組みとして目の見える人と見えない人により行われた『はじまりのひ』の読書会に参加した中川美枝子が、展覧会を通じて得たものを語る。

聞き手・文=安原真広(ウェブ版「美術手帖」編集部)

 日々多くの情報が押し寄せる社会を生きている我々は、それらの情報を効率よく伝達するために、無意識に「語り」を一元化してしまうことも多々ある。しかしその「語り」は、本当に自身の知覚や経験にもとづいた「語り」なのかを問われたとき、素直に頷ける人は多くはないのではないだろうか。

  渋谷にある東京都渋谷公園通りギャラリーで開催されている「語りの複数性」展では、田中みゆきのキュレーションのもと、大森克己、岡﨑莉望、川内倫子、小島美羽、小林紗織、百瀬文、山崎阿弥、山本高之の8作家が、写真や絵画、模型、描譜、映像、音といった様々な形態で「語り」についての問題提起を行っている。立場や手法が異なれば「語り」が変わるという当たり前のことに気がつかせてくれるだけでなく、鑑賞者が新たな「語り」の存在を意識し、さらに自らの「語り」を紡ぐためのヒントがあふれている展示だと言える。

「語りの複数性」展示風景より 撮影=木奥惠三

 なかでも、川内倫子が自らの出産体験を契機に制作した写真絵本『はじまりのひ』を題材とした展示空間は、我々が当たり前のものとしている「見る」という行為の多様性を、目の見えない人たちの「見る」行為を通じて教えてくれるものとなっている。

 展示では、川内の写真絵本を構成するテキストや写真とともに、4枚の触図が展示されており、さらに写真を触れることで「見る」ことができるだけではなく、目の見えない人たちがいかに『はじまりのひ』を見たのかもテキストや音声、立体作品などによって提示されている。これは「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」の中川美枝子を中心に開催された、目の見える人と見えない人がそれぞれの見方を持ち寄る『はじまりのひ』の「読書会」をもとにしたものだ。

「語りの複数性」展示風景より 撮影=木奥惠三

 写真においては当たり前とされている「見る」という行為が、視覚の有無を超えて展開され、そこでいかなる「語り」が可能なのかを問いかけるこの展示は、「語りの複数性」展の志向を象徴するものといえるだろう。作品を「見る」こと、そして「語る」ことについて、展示を通じて川内や中川はどのように思考したのか。そして企画者である田中はそこでいかなる気づきを得たのか。3人の鼎談から迫りたい。

「語りの複数性」展示風景より 撮影=木奥惠三

──まず「語りの複数性」という展覧会全体のコンセプトを、展覧会を企画した田中みゆきさんより教えていただけますか?

田中みゆき 私たちの社会は、みんなが同じものを見て同じ情報を得ているという前提でつくられています。しかし、私は障害のある方たちとのプロジェクトを通じて、使っている感覚が違うことでいわゆる健常者とは違う世界が、いくつも並行して存在することをつねに意識させられてきました。

 例えば、視覚に障害がある方にとっての音や、聴覚に障害のある方にとっての人の顔の表情など、そこから得られる情報によって形成される様々な世界が同時に存在しています。それは健常者とされる人たちも同様で、どの感覚に比重を置いて世界をとらえているかは異なるのが普通で、私達は本来そうであるはずなのに、その誤差が消去されてきたように感じていました。

 美術の展覧会も何かしらの一定の見方があるものとして構成されがちです。でも「語りの複数性」は、様々な解釈が人の数だけ生まれる、答えがひとつではない場所をつくりたいと企画しました。

川内倫子

──「語りの複数性」のなかでも、とくに川内倫子さんの写真絵本『はじまりのひ』をテーマに構成された部屋は、展覧会を象徴するような存在だと思います。「語りの複数性」の参加者のひとりとして、田中さんが川内さんを選んだ理由を教えてください。

 田中 目の見えない人とともに写真作品を鑑賞する、というワークショップはよくあるのですが、例えば街を撮った写真だと、被写体となった街の説明に終始してしまうことが多々あるんですよね。写真作品そのものの話をするためには、抽象的な部分を共有することが必要だと思っていました。

 川内さんの写真は、写真に写っているものがすべてではなく、抽象化された寓話性がそこにあります。そして「弱いもの」を撮っていて、解釈の余地がたくさん残されている。また、誰も手に取ることができない光を写しとった作品も多い。そういった要素が組み合わさっていて、多様な見方の可能性が開かれていると感じていました。

川内倫子 お話をいただき、写真絵本という形態をもつ『はじまりのひ』が今回の企画にもっとも適しているのでは、と考えました。私の作品は1枚の写真で完結せず、複数のつながりを通してひとつの作品なので、連続したかたちで見てもらう方がいいと思ったんです。とくに『はじまりのひ』は、絵本という特殊なスタイルで出していて、テキストがあることで見えない方の想像が膨らむのではと思い提案しました。

田中みゆき

──展示では『はじまりのひ』の写真と絵本に書かれた言葉とともに、触図が展示されています。

田中 視覚に障害がある方のなかには、写真は触れられる現実世界を触れられない二次元の世界に落とし込むメディアなので、自分たちには関係ないとおっしゃる方もいました。たしかにそういった側面もありますが、写真の表現は被写体だけでなく、構図や光の表現といったところに作家性が現れる。それを知ることで、写真に対する入口が開かれるのではないかと考え、触図を川内さんの写真とともに展示することにしたいと考えました。

──触図になった写真を触ってみて、川内さんや中川さんはどのような感想を持ちましたか?

川内 『はじまりのひ』に収録された、車のフロントガラスのワイパーの擦れたあとに光が当たっているところを撮影した写真が触図になっていました。この写真は触図にすると一番わかりにくいだろうと思っていたんですが、触ると想像力が膨らんで、光を感じることができました。光を触るという感覚が体験できたのは、とてもおもしろかったです。実際には手で感じられないものを触っている、ということですね。

中川美枝子 私にとって鳥や手のような対象は、日常的に実物を触ったり、立体的なものとして感じ取った実体験があります。そういったものを平面的な触図に置き換えて触ってみたところで、自分の経験にはダイレクトにつながりにくく、イメージがうまく立ち上がってこないことがあります。光のように普段は自分で直接感じ取れない対象の方が、触ったときに自分の感性に委ねられている感じがするし、触図として面白いという気がしましたね。

「語りの複数性」展示風景より 撮影=木奥惠三

──触図だけではなく、中川さんをはじめとした読書会のメンバーたちの、作品鑑賞を通じて生まれたテキストや立体作品も同時に展示されていますね。

 田中 目の見えない人たちに完成した触図を触ってもらった結果、それだけではなかなかイメージを描くのが難しかったこともあり、言葉でのアプローチと合わせることにしました。中川さんが活動している「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」の林建太さんと中川さんを中心に、どういった言葉があれば作品と鑑賞者がお互いを補完できるのかと考え、「読書会」と呼ばれるアプローチをすることになりました。「読書会」では川内さんの『はじまりのひ』を見える人と見えない人がいっしょに読むワークショップで、参加した見えない方たちが何をとらえたのかを、言葉や立体作品などで表現してみようというかたちになっていきました。

──たんなる作品展示ではなく、触図や「読書会」を経て生まれた語りなどが複合されて『はじまりのひ』の展示ができあがったわけですが、こうした過程も含めて、みなさんは展示にどのような感想を持ちましたか。

中川 以前にも川内さんの作品は私達のワークショップで取り上げたことがあって、作品の持つ「やわらかさ」や「光」といったイメージはなんとなく持っていました。それを前提としたうえで、絵本という連続性やテキストをともなったかたちとして見ることで、より写真を理解することができたと思います。

 作品単体にフォーカスするのではなく、絵本そのものを読んだという経験、全体を俯瞰するような視点を大事にするべきだということを受け取り、テキストを書きました。それでも、自分の言葉だけで『はじまりのひ』を理解するのは限界があったので、だからこそ読書会で色々な言葉を持ち寄り自分の体験に近づけていく、その擦り合わせの作業がすごくおもしろかったです。近づきたいけど近づけない、でも近づけた気がするという感覚を、言葉にしていこうと思いました。

中川美枝子

川内 中川さんのテキストからは、私が中川さんにバトンを渡すことができたということが伝わってきて、とてもうれしかったです。私と同じ場所を見ながら、中川さんの言葉が生まれてきた。作品を見る人それぞれにいつも解釈を委ねていますが、今回はまさにいろいろなかたちで現れてくれました。

田中 読書会では想像以上に色々なことを共有できました。それはなぜかと考えたとき、やはり「言葉があった」ということが大事だと思います。見える人が見えない人と出会ったとき、「見えない」ということが大きすぎて、ついそこに囚われてしまうのですが、本当は見えない人のなかの「見えない」という要素はごく一部ですよね。中川さんだったら「先生を目指して試験を受けている」とか「大学院でドイツ文学を学んでいる」といった色々な経験や来歴があるのに、それ以前に「見えない人」として扱われてしまう。読書会に参加した見えない方々のアウトプットから見える/見えないを超えた内面の多様さに触れられるのがよかったと思います。

中川 例えば読書会では、海の写真では「海よりも砂に潜りたい」とか、トンネルの写真では「トンネルから出ていく写真なのか、入っていく写真なのか」といった、メンバーによる様々な作品解釈を共有できて、盛り上がりましたね。

川内 私が『はじまりのひ』に掲載している写真を撮影したのは主に出産の前後でした。赤ちゃんと自分がまだつながっていて、自分がはじめて自分じゃない、半分他者とつながっている感覚で撮影した写真だったんです。あれから5年ほどを経たいま気がついたのですが、子供と一緒に新しい世界を見ていたようなこの作品を、目の見えない方たちと触れ直し、そして共有できた。そう考えたときに、今回の展覧会にぴったりの作品だったんだなと思いました。

「語りの複数性」展示風景より 撮影=木奥惠三

田中 いっぽうで読書会では、川内さんの作品から、死や残酷な印象を受けるという声もありましたね。きれいなことだけでなく、その感覚を見えない人とも共有できたのも良かったです。あえて言葉にすることで、鑑賞者の経験が引き出された気がします。写真のレイヤーがすごく深まったと感じました。

川内 出産を経て、これまでいなかった人がいまいる、「向こう側」から人が来たという実感が作品に現れていたのかもしれませんね。

中川 経験が引き出されるというのは本当にそのとおりですね。被写体そのものの話をしていても作品に近づけた気はなかなかしなくて。その作品を見た経験を共有したり、自分の言葉で書き起こしたりすることで、もちろんそこには痛みだったり恥ずかしさが伴ったりもしますが、その過程を含めて作品を感じられたのはすごく良かったと思います。

川内 私もそういった経験をしながら作品をつくっていると思います。毎回、少し恥ずかしい気持ちになったりしますが、それは自分のなかの知らなかった部分や、見せたくない部分が出たりするということでもあるので、いいことなのかなとも思っているんです。

 写真のおもしろいところは、何かに出会わなければいけないというところです。自分が身体を動かして、経験しなければいけない、自分の身体をつかっているからこその面白さがありますし、ある種のアスリート的な営みのように感じることもあります。体調が悪いと入ってこないものがあったり、逆に調子がいいときは現場の状況にリンクして、自分が期待していなかったおもしろいものが見えたりするんです。

「語りの複数性」展示風景より 撮影=木奥惠三

──中川さんはこれまでのワークショップを通じて、作品を様々な立場の人たちと鑑賞するための手法をいろいろと試行錯誤してきたと思いますが、鑑賞体験を様々な立場の人々と共有するうえで重要だと感じることを教えて下さい。

中川 言葉にすること自体は表面的な作業で、その過程で自分の経験を引き出し、作品と照らし合わせていくプロセスが大事だと思っていますし、写真とか絵画だと(音がある映像に比べて)そのウエイトがもっと重くなります。人から聞いた言葉を頼りにするからこそ、自分がこの作品と向き合っているのかという不安もあり、色々と考えることも多かったです。

 また、自分は外国語も学んでいるので、作品を見ながら自分がいる世界と、向こうの世界を意識したときに、外国語を勉強して使ってみた感覚にも近いと思いました。身体的な体当たり感ではなく、色々なメッセージを読み取れたときにはすでに消えているといった心のズレを思い出す作品でした。それも、作品に向き合った経験として書き残しておきたいなと思いましたし、それを共有できたのはとてもうれしいです。

──最後に、田中さんに『はじまりのひ』を本展覧会で展示する過程でみつけた意義や、展示を通して来館者に感じてほしいことを聞かせていただければと思います。

田中 例えば、目の見える方と見えない方の感覚が違うことはずっと言われてきましたが、「違いを持ち寄る方法」は色々あると思っています。『はじまりのひ』の部屋はそれを体現できる場所にしたいと思っていました。

 私たちの思い込みは強いので、その奥にある人間性に思いを巡らせるものになっていればと思います。多様性が叫ばれていますが、主観を隠さずに持ち寄るということはややこしいし、社会システムのうえでは効率も悪く面倒なことだと思うんです。それでも、一人ひとりが答えを急がずに複雑さを持った人や物事と向き合う耐性は、これからますます必要になってくるのではないでしょうか。この展覧会をきっかけに、訪れた人のキャパシティが少しでも広がることを願っています。

 「見る」というもっとも普遍的で共有可能だと思われがちな行為が、写真絵本を目の見えない人と「見る」という行為を経ることで、そこに隠されていた複数性が明らかになったことがよくわかる鼎談となった。川内は自身の作品の解釈の多様性を、中川は知覚を言葉にする可能性を好意的にとらえ、それぞれの活動に反映していく可能性も感じられた。

 田中が意図した「答えがひとつではない場所」が展示で実現されただけでなく、複数の答えがあるからこそ対話が生まれ、新たな価値を生み出す原動力になっていることが川内や中川の会話からは伝わってくる。高度に統合を求められる社会を生きるあらゆる人々にとって、この展覧会は見えなかった「語り」を見つけ、自分の価値観をアップデートできる場所になるだろう。

「語りの複数性」開催中の東京都渋谷公園通りギャラリー外観 撮影=木奥惠三

編集部