個としてのアーティストはどうあるべきか?
The Public Times vol.2〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜

2018年、新宿・歌舞伎町のビルを一棟丸ごと使用し、「にんげんレストラン」を開催したことで話題を集めたChim↑Pom。彼らはこれまでも公共空間に介入し、数々のアートを展開してきた。本シリーズでは、Chim↑Pomリーダー・卯城竜太とアーティスト・松田修が、「公」の影響が強くなりつつある現代における、「個」としてのアーティストのあり方を全9回で探る。第1回から4回は、卯城と松田が現在の日本のアートシーンにおけるキュレーションとアーティストの関係性、そしてオルタナティヴスペースの現状を語る。

《人間の証明1》パフォーマンス中の松田 撮影=関優花
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「エクストリームな個」が見たい

——第1回ではキュレーションにおけるアーティストの存在感と、アーティストたちが「個」として際立っていた大正時代へと話は展開しました。そして今回は、「個」としてのアーティストの話をより深掘りしていきたいと思います。

卯城竜太 第1回は大正の話で終わっちゃったけど、もう一度歌舞伎町に話を戻します(笑)。(歌舞伎町で)アンデパンダン展をやる意義について、メンバーみんなでめっちゃ話合ったから理解はしあってたよ。けど周りにまでイメージを共有するのは無理だったね。キュレトリアルを脱却したアーティスト・レスポンシビリティなイベントを模索した結果、アンデパンダン展をヒントにしたんだけど、同時に、巷にあふれるアンデパンダン展がなぜそんなに面白くないのか?って疑問が議論になった。

 検閲がブームないま、無審査で展示できるのになんで?って。で、ウチらのなかでは、「これはひょっとして『民主主義のつまらなさ』を見せられてるからなんじゃないか」って仮説が立った(笑)。読売アンデパンダン展も「美術の民主化」を謳っていた。とはいえ、読売アンデパンダン展や大正時代のアンデパンダン展が過激でヤバくなったのも、民主主義の賜物でしょ。結果、民主主義がテーマになって、(歌舞伎町の)ラフプランのタイトルは「平成最後の大忖度アンデパンダン展」になった(笑)。

 これはこれで個人的にはめっちゃオモロそうだったんだけど、やっぱそれでも自然には面白いことにならなそうだって予感は拭えなかった。無審査だとしてもいまのアーティストがそこまでやるか?って。で、結局アーティストってなんだっけ論が、キュレトリアルな束縛を外したのにまた再来してしまった。

松田修 それで、「公」の在り方から考えるアンデパンダンから、強烈な「個」から「公」が見えてくるような「にんげんレストラン」が生まれたんだね。にんげんレストランで、僕に対してChim↑Pomが言ったことは、「エクストリームな個」を見せてくれってことくらいだったんだけど、大正アート研究効果(笑)によって、まさに強烈な「個」のイメージが膨れ上がっていた時期だったから、僕にはちょうどよかったかもしれない。

《人間の証明1》パフォーマンス中の松田

卯城 僕と松田くんのなかでは、にんげんレストランは完全に「劇場の三科」をイメージしてたよね(笑)。「劇場の三科」は大正時代のイベントで、いろんなコレクティブが連合した伝説のステージ。客にバイクの排気ガスを浴びせたり、廊下を焼き魚の煙で満たしたり、客に聞こえない小声で芝居したりとか、たぶん「元祖狂ったパフォーマンスイベント」(笑)。

 「エクストリームな個」ってのは、やはり松田くんの生い立ちがそもそもエクストリームだったから。尼崎のかんなみ新地っていう“ゲットー”出身で、家庭環境や育ち含めて尋常じゃない。同じ日本かと思えるくらいのスラムな環境で根ができあがっている。パトカー燃やしたり強盗したりで、中学の頃に“ちゃんと”鑑別所にも2度収監されてるし、けど最終学歴は藝大大学院の美術研究科だから、国立から国立ってある意味エリートみたくいじられている(笑)。僕が中卒で美術教育を受けていないから、なんかお互いちょうどよく世間やアートのことをズレた感じで話し合えるんだよね。美術史でわからないことがあったらまずは松田くんに聞くようにしている。

 そんな松田くんが、大正について、個別のペインターはともかくムーブメントや数々のアクションについては知らなかったのにびっくりした。ウチら戦後に洗脳されてない?って(笑)。大正が大政翼賛体制になる前夜の最後のデモクラシーの時期だったことから、その時代と現在、公と個の関係などが全部リンクしはじめた。で、さらにいま変容する公の性質を話しはじめたら、最近の公園の民営化がトピックになった。

《人間の証明1》パフォーマンス中の松田

変わる「公」の意味

松田 公共のルールが変わってきたっていうのは絶対にある。「昔は良かった」と言うつもりはまったくないけど、本当に公園がわかりやすい例。いま公園ってデザインされてきて、「公」園ではなく「マジョリティ」園になっている。例えば大阪城公園ですね。大阪城公園は民営化して、いま電通が運営してるんだよ。大阪城公園はその結果、花見が有料になったりしてるんだけど、だけどまあ「素敵な感じ」にはなってる。

——それは、「多くの人にとっては素敵な感じ」ということですよね。

松田 そのとおりです。マジョリティが喜ぶかわりに、確実に排除された人はいるわけで。でも実際、営業利益も増えてるんですよ。公園が稼げるコンテンツになっている。公園が儲かるってみんなわかっちゃったから、素敵にデザインするでしょ。上野公園なんかはスターバックスができたりしてたくさんの人が訪れるようになったかわりに、「把握不能な人たち」が寄りつかなくなった。そういえば、Chim↑Pomイチのアル中である岡田君も、昔はよく公園で寝てたけど、最近は空気を読んでか家に帰るようになったよね(笑)。

卯城 おかやんはいまだってベロベロだよ(笑)。財布や携帯なくすから外で寝ないんじゃない?(笑)。上野公園は、スタバを入れるいっぽうで的屋は排除する方向に動いてる。的屋は反社会的な部分があるからっていうのが行政の言い分なんだけど。

松田 たこ焼き屋がなくなった代わりにスターバックスを入れる。めちゃくちゃ簡単に言うと新自由主義的な思想で公園を運営していこうという風潮が日本中に起きてる。それは公園のあり方としては「公」ではないでしょ。僕は自宅が西荻窪なんですけど、平日に自分用に弁当をつくって、寝癖全開のまま公園で食べてたんですよ。そしたら警察が来て......「公園に入りづらい」っていう通報があったらしくて(笑)。公園で飯食ってるだけですよ(笑)。

 本来ならば、あらゆる「個」のための「公」であったものが、まず「公」ありきで、「個」はそれに追従しなければならなくなってるよね。この構図は、カオティックであったアートのインフラが少しづつ整備されて、そのインフラに寄り添ったアーティストがたくさん生まれるかわりに、把握不能なアーティストが減っている状態とリンクしないかな? それと、まずはキュレーションありきで、アーティストがそれに追従するような状態も。

 もちろんインフラが整備されることは良いことだし、キュレーションが面白いのは素晴らしいことなんだけどね。問題は、アーティストにあるような気もするね。

卯城 それでひとつ思い出したのが渋谷の宮下公園のこと。2010年に、ナイキが命名権をゲットしたのを機に宮下公園の再開発プランが活性化し、ホームレスの強制排除への反対運動が起きたじゃないですか。ナイキパーク騒動。そのとき、小川てつオさんっていう代々木公園でずっとテント生活をしているアーティストたちが主導して「宮下公園 アーティスト・イン・レジデンス」という名前で、公園をジャックしたんですよね。

 折れた傘や壊れた自転車をオブジェと称して展示したり、いろんなイベントを始めたりとか。当時はまだそういう軋轢が目に見えるかたちであったし、個による公へのアプローチも活発だった。まあテロの時代になったってのも不審者にとっては逆風だよね(笑)。

 でもいま改めて考えてみると、松田くんや岡田くんみたいに「入りづらい」とか言われちゃうカスみたいなやつがアーティストをやってたりもするじゃないですか。

 なのにいまは変なことにもなっている。例えば「ジェントリフィケーション」って、ウチらみたく公共圏をテーマにしたり、マーケットベースでアートの値打ちを扱う作家にとっては当事者でしょ。ニューヨークのダンボ地区で来年個展があるんだけど、そこじゃジェントリフィケーションを扱うこと自体がタブーになってるってギャラリストが言ってました。やり口としては、不動産屋がビルや土地を買い漁って、アートスペースをたくさん呼びこむ。それによって地価が上がる。で、結局おしゃれで良い感じの街になるんだけど、そこに住めなくなる人たちがたくさん出てくる。

 公園にいると通報されて追い出されるようなアーティストがいるいっぽう、アートは追い出す側の原動力ともなっている現状がある。「アート」の経済的価値が高いっていことで説明はつくんだけど、だけど説明できなくなるのは、「アーティスト」の存在なんですよ。アートは価値がテーマみたいなとこもあるから、高いのはわかる。街が素敵になるのが良いのもパンピーの立場に立ったら理解できる。でも、アーティストってそれでいいんだっけ、そういう存在なんだっけ? そういう根本的な「?」が最近のアートシーンにはあると思う。それを考えるにあたってやっぱり参照したくなるアーティストが多いのが、美術史の中ではダダやネオダダなんですよね。前衛。

卯城竜太

松田 前衛の人たちの「公」への態度は、決して追従ではないもんね。とくに大正から昭和初期のダダイストは、実際に捕まったり拷問を受けたり、しまいには殺されたりもしてるわけで。日本のアートコレクティブの先駆けで、過激な運動をくり返していたMAVO(*1)や、アートのみならずサブカルチャーの文脈でも多大な足跡を残す、岡本唐貴(*2)なんかね。彼らの「公」への態度は見習うべきところも多いよね。

 卯城くんの話に戻すと、町を追い出す側にも追い出される側にもアーティストの存在があるとしたら、「公」を変化させる自覚的な「個」の意識を持つべきなのが「アーティスト」なのかもしれないね。決して「追従」ではなくね。

 さっきキュレーションが強い時代って言ってたけど、アーティストがあるキュレーションのために答えるという役割が強くなったとき、つまりキュレーションに「追従」するとき、ピースとして破壊力のある作品が発表できなくなったりするんじゃないかな。

卯城 60年代のネオダダも「反芸術」っていうくらいだから、「芸術」っていう「公」に個が介入してる。大正の日本のダダがなんか欧米の同時代のダダムーブメントと異質に見えるのもその公とか社会への意識なんだよね。関東大震災を機にめっちゃムーブメントが活性化してるから、なんか切迫したサバイブ感があるっていうか。

 欧米のダダって無意識の領域や理解度を排除してストイックじゃん。けど日本のは妙に身体感や暮らし感があってお茶目なんだよね(笑)。インスタレーションや建築がわかりやすいんだけど、例えばドイツのダダイスト、クルト・シュヴィッタースによるメルツバウ(*3)とか、とにかく無意味性に特化してシュッとしてていけてる感じ(笑)。ノイズミュージシャンのメルツバウにDNAがちゃんと受け継がれてる(笑)。

 それに対して、関東大震災翌年に開催されたグループ展「帝都復興草案展」でのMAVOの参加の仕方と作品とかってマジでキモそうだからね(笑)。復興のための建築的な構想を発表してるんだけど、その部屋は怪奇室とか騒がれて、作品は建築模型とか言いつつ、髪の毛や新聞、首なし人形とかを素材にしてたらしいよ。さらに震災直後に行われたMAVOの展覧会のDMには、一枚一枚に髪の毛が貼られてたって(笑)。ここでも、さっき言った身体と建築の両極が同居してる。(作品が)キュレーションの挿絵にはなってないよね。

キュレーションで薄れるアーティストの存在感

卯城 そもそも、話をキュレーションやアートフェアにおける作品の存在感に戻そう。僕はこれ海外のビエンナーレとかで感じていたことなんだけど、松田くんは、日本の若手キュレーションの展覧会に対して感じたんだよね。

松田 キュレーションやキュレーターの存在感に比べて、作家の存在感が希薄に感じることがあるんだ。だから「このアーティストがすごい」っていうよりは、「キュレーションが面白い」っていう感想が多くなる。引用元もしっかりしていて緻密なキュレーションを行ってるのはめっちゃ関心するんだけど、一人ひとりのアーティストをまったく覚えられないみたいな。

 さっきも言ったけど、これはキュレーターの問題というより、参加しているアーティストの問題だと思う。けれど彼らが、「個」よりもキュレーションという「公」を大切にしているならまったく問題ないし、「公」を無視しすぎるアーティストは、そもそもキュレーションされにくいだろうし。

松田修

卯城 僕もキュレーションを何度かしてきたから、彼らの気持ちもよくわかるし、個人的には良い展覧会だとは感じてる。キュレーターは映画でいう監督としてグループ展をやらなきゃだから、作品が配役的になることはある。「旧作であの作品はほしいな」って思ったりもする。結果、独自の物語をがつんと「ショウ」にできていればいいわけだしね。この話はキュレーションが成熟してるってことでもあるから。

 かたやアーティストがそうやってキュレーションされたりフェアで理解されるとき、つまり配役されるときの一番大きな理由のひとつに「作家性」がある。旧作にしろ新作にしろ、どんなステージやフォームでも、「作家性」というものが絶対的な信頼性としてある。この作家だからここに必要なんだ、っていう配役ね。その作品がゴミであってもペインティングであっても究極どっちでもいい。その作家がつくってるっていうことが重要な感じ。

 僕はそれは当たり前に重要だと思ってたんだけど、こないだ作家友だちの加藤翼くんが、「作家性を求める姿勢って要するにファッションないじゃないか」って面白いことを言ってた。翼くんが言うには、アーティストがキュレーターやコレクターが求める「作家性のデザイン」にハマりすぎてると。「人気のブランドなら買うのって思考停止じゃないですか?? 作品単体の批評で、ブランドで説明できる比重が大きくなりすぎると、それは市場原理って感じになってしまう。そうなると極論、いくらヤバい作品があっても、みんなもう気付かなくなるんじゃないか」って。

「にんげんレストラン」で行われた加藤翼のパフォーマンス

 つまり、作家性=信用経済みたいに、アーティストにとって使い勝手がいいものになっちゃってるし、むしろ作家性に依存しちゃってるから、作家が「破壊力のあるひとつの作品をつくるんだ」っていう気持ちよりも、「自分がつくるならなんでもいい」みたいなとこに落ち着きすぎてると。

 作品によってアートフェア自体を面白くさせてやろうとか、この国際展/芸術祭/グループ展の一線を自分が越えてやろうみたいに思わなくても、作家性があってやってるわけだから別にいいわけで。けどそうなると、確かに配役の根拠や作品の説明は、作品の佇まいや態度よりも、テキスト寄りにはなっていく。

松田 そのことをキュレーター側もわかっているから、しっかりデザインされた作家性を持つ作家を選びたいんじゃないかな。キュレーターが定めた方向へデザインしやすくなるし、それは理解できる。

 さっきの公園の話と通じていて、「公」って本当はデザインしづらいものでしょ。ユニバーサル・デザインっていう話もあるけど、本当はみんなが気持ちよくなるデザインとかかたちっていうのは想像しづらいもので相当難しいもののはず。だからまず方向を定める。それこそマジョリティに方向を定めて、さらに計算できるコンテンツを用いると、デザインしやすくなる。その計算できるコンテンツっていうのが、例えば「スターバックス」なわけで。そういうことがキュレーションでも公園でも起こっているんじゃないかな。

 つまりキュレーターは、キーワードや方向性をまず決めて、計算できる作家性を持つ作家を探して、展覧会をデザインする。美術館では有効かもしれないけど、卯城くんのいうような「個のエクストリーム」を発揮するには難しいんじゃないかな。期待されてることを期待通りにこなすだけだから。このことにアーティストが自覚的じゃないと、進歩できなくなる可能性はあるよね。

卯城 そうなんだよ。自覚ねー。てかこんだけ言っといてなんだけど、個人的にはキュレーションも作家性も個のエクストリームも全部がマックスに共存できればそりゃ理想だけど、それが理想論だって意識もありますよ(笑)。コマーシャルな場所や海外のビエンナーレとか、そういうのが難しいときや場所も当然ある。それだけ昔よりアートのシステムやインフラが整備されたってことだろうしね。

 ただ、キュレーションや国際展、コマーシャルギャラリーやフェアなど、いまの作家は様々な公を知ることがまずは大事だなとは思う。それでこそ、その特性を逆手に利用して遊べもするし。個人的には、いま一番楽しいのはやっぱりオルタナティヴ。なんせ自己責任でプロジェクトを展開できるしね。それをインディペンデントに実行できる体力や影響力を様々な公たちから得る、っていう感じはあるかもしれない。(第3回に続く)

卯城竜太

*1ーー1923年に結成された前衛集団。メンバーは柳瀬正夢、村山知義、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎の5人。自らを「マヴォイスト」と称し、立体作品や建築、演劇など幅広い活動を行った。「三科」や「アクション」といった前衛集団とも協働している。25年に解散。
*2ーー戦前の前衛美術及びプロレタリア美術運動の推進者の一人として活躍した画家。
*3ーークルト・シュヴィッタースが1920年代より継続して制作した建築的構成物。