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2024.2.27

群れとしてのグラフィックデザイン。塚田優評「もじ イメージ Graphic 展」

近代のグラフィックデザインを振り返るとともに、DTP(Desktop Publishing)が主流となった1990年代以降のデザインをひも解く21_21 DESIGN SIGHTの企画展「もじ イメージ Graphic 展」。評論家の塚田優が、本展の構造を分析しつつ、本展が提示するこれからのデザイン像を考える。

文=塚田優

展示風景より、「文字と身体」  撮影(すべて)=三澤麦(ウェブ版「美術手帖」編集部)
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 グラフィックデザインは美術と密接に関わりながら、応用美術としてジャンルに内包されるのではなく、独自に展開しながら社会のいたるところでその価値を発揮してきた。近年では「ソーシャルデザイン」「デザイン思考」といった言葉も聞かれるようになり、考え方のモデルとしてもデザインは重要視されるようになった。「デザインは生産と消費のほぼ完璧な回路を幇助し、そこではいかなるものにも『余地=あそびの空間』がほとんど欠けている」(*1)とハル・フォスターは現状をややシニカルに要約しているが、「もじ イメージ Graphic 展」は、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットが共存するマルチモーダルな日本の書字様式を前提に、言説的な記述の少ない(*2)、DTPが定着した1990年代以降のグラフィックデザインを歴史として再編成しながら、フォスターが欠けているとした「余地=あそびの空間」を、日本という辺境で制作されたグラフィックデザインを通じ見出そうという試みである。

展示風景より

固有性と集団性

 最初に前提として注意しておきたいのは、この展覧会はタイポグラフィに特化したものではなく、あくまでもそれを起点として、表音文字と表意文字が共存し、それがイメージと自由に関わり合う日本の「グラフィックデザイン」にフォーカスしたものであるということだ。日本ローカルの携帯電話、いわゆるガラケーにそのルーツを持つ絵文字が名だたるデザイナーたちの作品と同等に扱われているのも、こうした事情が関係しているのだろう。

 展示の冒頭では、プロローグとして90年代以前のグラフィックデザインが紹介され、モダンデザインと日本の視覚文化がどのように折衷されてきたのかが概観される。永原康史の《日本語のかたち鳥瞰》(2002)がぐるりと展示室の壁を取り囲み、古代から現代までの書字体系がパノラマのように展開されるなかで、欧文書体の美学を体現した亀倉雄策や、アルファベットを建築的に描いた五十嵐威暢らの仕事が回顧される。

 彼らの取り組みは、どのように90年代以降のグラフィックデザインに引き継がれたのか、あるいは引き継がれなかったのか。90年代以前の歴史をおさらいし、続いて13の観点から様々な実践がプレゼンテーションされる。そこにあるのは経済の成長とともにデザイナーの地位も向上する「進歩史観」ではなく、パソコンさえあれば誰でもグラフィックデザインができるような環境のなかで生み出された成果物だ。取り上げられる固有名に特段の驚きはないものの、テーマごとに3組から6組のデザイナーたちが割り振られることによって、それぞれが直接的には意識していないであろう類似が直観されたり、テーマを越えた照応関係から能動的な解釈が引き出されていく。

展示風景より、「造形と感性」。手前から菊地敦己、仲條正義、服部一成による作品

 そのための切り口としてまず考えてみたいのが、固有性と集団性という対比だ。これは関連イベントとして開催されたトークのなかで展覧会のディレクターたちも触れていた事項であるが、おおよそ時系列に沿って構成された展示は、90年代や2000年代前半は戸田ツトムや仲條正義といったような各々の「作風」によって代表されていた時代のモードが、現在に近づくにつれ、構築を避けるようなレイアウト、ピクトグラム的な人物イラストレーション、自由な描き/書き文字、DIY的質感といった「ミーム」として看取されるような流れになっている。様々なデザイナーに交じって、当たり前のようにIllustrator、Photoshopを開発・販売するアドビが紹介されていることは、その集団性を象徴しているだろう。SNSで目にする創作デザイン文字、いわゆる「作字」シーンについて葛飾出身を紹介することによって目配せしたり、山形在住で、その土地のコミュニティと関わりながらデザインを行う吉田勝信や、多様なシチュエーションで重宝されるいらすとやなど、集団性は展覧会の様々なポイントで観察できるモチーフである。

 そしてそれと同時に「もじ イメージ Graphic 展」は、だからこそ際立ってくる個性や属人的な系譜について考えさせられる機会にもなっていた。仲條の文字と図像を往還する仕事は、服部一成や菊地敦己のような形象の脱構築やレイアウトの妙へとつながっているし、祖父江慎+コズフィッシュが切り拓いたマンガ装丁へのトータルなアプローチは、川谷康久らによってエモーションを運ぶコンテンツとしてのマンガやアニメーションの受容体験を、より昂進させるよう計画されている。野田凪による奇想はカルチャーのアダプテーションとして再定位され、映画への批評的態度表明をオルタナティブポスターとして提示する大島依提亜へと接続される。大原大次郎が体現する文字表現の臨界は、大日本タイポ組合や水戸部功、上堀内浩平らと対照されることによってタイポグラフィの多様な実践として立体的に把握され、秋山伸や立花文穂によるデザインの生産や流通への介入は、寄藤文平やいらすとやもイメージの記号性というまた別の戦略によって試みられていたことが明らかになる。また、ユニクロのブランディングやロゴデザインなど、その視覚的なイメージでもインパクトを残してきた佐藤可士和に対して、彼の著作を展示し、その思考に焦点を当てたことも大胆な見せ方だったといえる。ここからは2000年代以降のデザイナーの役割が、具体的な成果物ではなく、案件全体の「コミュニケーション戦略を総合的に立案」(*3)する仕事へと変容していったことがつまびらかにされるだろう(*4)。

 テーマごとに区分けがなされつつも、展示空間ならではの一覧性はこのようにグラフィックデザインに対する様々な断想を誘う。来場者はフラヌールとなって、パサージュのように構成された会場に点在するセクションをのぞき、デザインと遭遇するのだ。

展示風景より、「キャラクターと文字」。手前は祖父江慎+コズフィッシュによる作品

ボトムアップのデザイン

 そしてここまで述べてきたような固有性と集団性をめぐる問いは、デザインの生産がどのような回路を通じてなされているのかについての問いへとスライドしていく。ここでポイントになるのは、デザインの活動的な側面である。もちろんこれを促進したのは、90年代以降のDTP化やインターネットを介したコミュニケーションの活発化、あるいは経済の停滞といった背景が存在するのであるが、こうしたことを端的に提示しているのが《「投票ポスタープロジェクト」ポスター》だ。このプロジェクトは2021年の衆議院議員総選挙の投票を呼びかけるポスターをつくり、それを広め、政治に関する議論や参加を促すもので、有志100名以上が参加した。デザインは資本、あるいは行政と結びつきながらその都度クライアントの提案をリプレゼンテーションし、文化や政治をアシストしてきた。だが「投票ポスタープロジェクト」が試みているのは、そのようなトップダウンではなく、デザイナーやイラストレーターが生活者の立場から、自ら公共をつくり出そうというボトムアップの志向だと言えるだろう。また、デザイナーとアクティビストの活動を両立する宮越里子も同様の傾向を持つ存在として紹介されていたことも、こうした動向をディレクターたちが重視していた傍証になるはずだ。このような政治的テーマに限らずとも、自身でメディアを立ち上げる立花や秋津設計、創作作字をSNSにアップする葛飾など、展示にはノンコミッションワークの数々が90年代以降のグラフィックデザインでどのように存在感を放ってきたかが再確認される。

展示風景より、「パブリックとパーソナル」投票ポスタープロジェクト

 また本展は、ローカルな視点に固執しない。たんなる西洋化を語るのではなく、日本の絵文字が世界で使われていることや、海外デザイナーの影響などを取り上げることによって、相互の影響関係についてふれている。例えばイギリスのデザイナーズ・リパブリックはカタカナをグラフィカルに再構築し、作風に取り入れているが、そのポップな感性は、参加作家ではないものの、90年代に活躍した常盤響の仕事を想起させ興味深い。小池アイ子は外国からの養分を吸収し、デザインのグローバル性を体現している。

 集団性と固有性、トップダウンとボトムアップ、グローバルとローカル。このように様々な二項間の往復を演出することで、同展は現行の社会構造下においてなくてはならない媒介者の役割を果たすグラフィックデザインに、垂直的ではない「余地=あそびの空間」を見出そうとするのである。

交配される図像

 展覧会を歩きながら、私はデザインの生態を植物のそれとアナロジカルに考えていた。会場に繁茂する、デザインの群れ。それぞれの群生地にどこかしら似たイメージが隣り合い、離れて展示してあるデザイナーの仕事に、これまで気づかなかった共通性を見つける。澁澤龍彦はかつてミシェル・フーコーに導かれながら、植物を「生命というよりはむしろ記号、あるいは幾何学的図像に近いのだ」(*5)と述べた。植物は子孫への高い再現性をベースに、交配や突然変異、環境の違いによって多様な姿形を獲得してきた。そしてグラフィックデザインも、近代に動員されつつも記号や幾何学を交配し、世界各国で実践されることによって、膨大なバリエーションを生み出してきた。植物は自然に、デザインは社会に依存するが、どちらも止まることのない循環のなかで、その命脈を保ってきたことは共通している。

 DTP革命が訪れて、飛躍的に情報技術が発達した90年代以降、日本のグラフィックデザインはモダンデザインの学習および展開にひと通りのスタイルが出そろい、ツールのデジタル化とともに各々の実践へと細分化された。00年代に入るとデザイナーはよりプロジェクトの調整に奔走する必要性が生じ、かつてのグラフィックデザインにあったイメージによる訴求は力強いものではなくなった。10年代を前後するころにはSNSも普及し、4大マスメディアを中心とした広告戦略は完全に過去のものとなった。だからこそ私は、こうした移り変わる時代を主題とした「もじ イメージ Graphic 展」が、何かがヘゲモニーを握るわけではなく、自然状態で植物が繁茂する生態系に重なっているように見えたのである(*6)。

展示風景より「グローバル性と固有性」、左から石塚俊、小池アイ子

 そしてそのような時代にあって、それでもなおイメージを「記す」ことに賭けるデザイナーたちは「どれもが個性的に見えながら、どれもが似てしまう問題系」(*7)と闘っている。それはもしかしたら、たんなる足掻きなのかもしれない(*8)。ここには、たしかにかつてのグラフィックデザインに感じられた大文字の歴史はないだろう。しかし明快なイメージをつくり出すことが難しい状況にあっても、自らが持つ文脈と他者との協働によって主体的にデザイナーとして振る舞う姿がそこには見出せるのであり、そのような短絡的な作家性を超えた存在こそを同展はフィーチャーし、歴史として提出しているのだ。

 生い茂るデザインの群生をかき分けた先で振り返ってみると、そこには私の足によって踏み均された道が出来ていた。この道は来場者によって違うかたちになるだろう。それこそが、それぞれにとっての90年代以降のグラフィックデザインの歴史であり、未来をクリエイトするためのしるべとなる。近過去の歴史化は、客観性をいかに担保するのかという点において、難しさがつきまとう。デザインはこの間に、職能の在り方や価値観も変わってしまっている。しかしだからといって、こうした総括を経ないことには、次のフェーズにも進めないだろう。提案された13のテーマは、今後どのような変貌を遂げるのか。同展はある種の「わかりやすさ」を回避し、文字というふところの深いモチーフのなかで実践される複数のアプローチを並列的に紹介することによって、いくつかの尺度を提示することに成功したのである。

展示風景より、「言葉とイラストレーション」。手前からいらすとや、Noritake、寄藤文平による作品

デザインは生きている

 会場を一巡し出口へ向かっていく手前に、展覧会の関連書籍がテーブルに並べられていた。私はそこに置かれていた、いらすとやがあしらわれた閲覧マナーについてのプリントを見たときに、一気に日常に引き戻される感覚を覚えた。なぜならそれは、展示されていたものとは一線を画した、「生きたデザイン」だったからである。会場にあったのは、すでに過去に伝達された情報たちだ。デザインは日常に存在してこそ、機能を発揮する。社会にとってデザインとはなんなのか。90年代以降の話題に絞っても、両者の関りは必ずしもポジティブなものばかりではなかった。細かく挙げていくとそれは様々あるが、ここ10年で注目を集めたトピックで言うと、15年に発表された佐野研二郎による東京オリンピックのエンブレムのデザインは国民を巻き込んだ議論を引き起こしたし、デザイナーの手がけたピクトグラム、またはプロダクトのわかりづらさは、言語的な指示に置き換えられることで原型を失い、「デザインの敗北」としてなかばネタ的に消費されている。

 グラフィックデザインが図と地をめぐるポリティクスだとするならば、会場に展示されたデザイナーたちの制作物はいわば「図」の部分であり、だからこそ指し示されなかった「地」について、私たちは思考を巡らせなければならない。グラフィックデザインはどのように図像を取り扱えばよいのか。この問題に、デザイナーはどう向き合っていくのか。受け手はいかなるジャッジを下さなければならないのか。その価値判断について考えるための出発点として、同展は差し出されたのである。

展示風景より「文字と身体」、左から三重野龍、佐々木俊

*1──ハル・フォスター『デザインと犯罪』(五十嵐光二訳、平凡社、2011、p36)
*2──グラフィックデザインの歴史記述に関しては、次の資料が参考になる。室賀清徳「『グラフィックデザイン史』を再訪する」、『グラフィックデザイン・ブックガイド』(グラフィック社、2022、p269~288)
*3──佐藤可士和『佐藤可士和の超整理術』(日本経済新聞社、2007、p23)
*4──このテーマでは佐藤のほかに原研哉、佐藤卓が取り上げられ、同様に著作を中心に紹介がなされた。
*5──澁澤龍彦『新装新版 思考の紋章学』(河出書房新社、2007、p247)
*6──もちろんこの展示は室賀清徳、後藤哲也、加藤賢策の3名のディレクターによって選定=剪定されたものであり、正確に言えばそれは手つかずの自然ではなく、いわば植物園のようなものだ。だが集団性への着目や、短絡的に作家性を称揚しない企画者たちの姿勢は、グラフィックデザインを植物の生態系のアナロジーとして捉える本稿の解釈と齟齬をきたさないだろう。
*7──『アイデア』369号[日本のグラフィックデザイン史 1990-2014](誠文堂新光社、2015、p3)
*8──杉江あこは次にあげる記事で、展覧会に参加したデザイナーたちの仕事を「新たな表現を楽しんでいるとも言えるが、もがいているようにも映る」と述べている。杉江あこ「もじ イメージ graphic展」https://artscape.jp/report/review/10189026_1735.html

参考資料
「もじ イメージ graphic展」制作委員会編『もじ イメージ graphic:日本の文字からひろがるグラフィックの地平』(グラフィック社、2023)
『MdN』298号[ヒトとコトで振り返る 平成のグラフィックデザイン史](エムディエヌコーポレーション、2019)
トーク「もじ イメージ Graphic 」
https://www.2121designsight.jp/documents/2023/12/graphic-231216.html