• HOME
  • MAGAZINE
  • REVIEW
  • 幻影を呼び込む空間。椹木野衣評 冨安由真展「漂泊する幻影」…
2021.5.10

幻影を呼び込む空間。椹木野衣評 冨安由真展「漂泊する幻影」、青木美紅「1996120519691206」展

KAAT神奈川芸術劇場の空間をインスタレーションへと変貌させた冨安由真の「漂泊する幻影」展と、「ヘルマウス」と呼ばれる悪魔から着想を得た新作を発表した青木美紅の「1996120519691206」展。ふたつの個展について、亡霊や幻影の気配を呼び込む装置として位置づけながら、椹木野衣が論じる。

文=椹木野衣

冨安由真展「漂泊する幻影」の展示風景 Photo by Masanobu Nishino
前へ
次へ

魔物がうつる場所

 気配とはなんだろうか。劇場空間での冨安由真の新作個展を見て真っ先にそんなことを考えた。私たちはふだん展覧会で作品を見ているようでいて、実際には作品そのものを見ているわけではない。私たちは作品と呼ばれているものを、どんなに真剣に凝視したところで、近づけるだけ近づいたとしても、その体験が作品そのものを見たということをなんら保証しない。作品そのものが物理的なものなのか概念的なものなのか、それらが曖昧に混在したものなのか、そんなことさえよくわからないのだから、それも当然だろう。

 もしそうなら、私たちは作品と呼ばれる無限に遠い彼方にあって容易には接触不可能なものの周囲に緩やかに境界も定かではなく漂っている気配のようなものを、つねにかいくぐりながら会場をあてどなくさまよっていることになる。
 だが、通常の展覧会ではそのようなことにあえてふれられることがない。いや、先にふれたように原理的に言って私たちが作品そのものを実体として見極めることができない以上、実際にはそれに近いことがつねに起きているのだが、観衆は目的なき亡霊などではなく、それどころか作品に正当にアクセスするための様々なデバイスをあらかじめ与えられ、それぞれの体験を立派に成り立たせているように扱われている。だから、かれらは鑑賞こそしていても「漂泊」しているようには見えない。しかし、よくよく見ればまるで「幻影」のようにいつだって漂泊し続けているのだ。

冨安由真展「漂泊する幻影」の展示風景 Photo by Masanobu Nishino

 つまり私が何を言いたいのかというと、劇場空間で開かれた今回の展示は、劇場でたまたま開かれる機会を持った展覧会というよりも、ここまでふれてきたような「漂泊する幻影」としての展覧会での観衆=亡霊の存在を、作品をかれらを召喚する一種の装置として扱い、美術館の展示会場には備わっていない劇場の設備を通すことで、より明確に闇のなかから浮かび上がらせる(もしくは蘇らせる)、つまり俳優ではなく観客の幻影性、つまりは実体なき気配を見せるための劇場=展覧会であったのではないか、ということなのだ。

 実際、私は今回の展覧会で作品そのものではなく、順番にスポットを当てられてゆっくりと点滅しながら焦点を結ぶ方々に散りばめられた作品に引き寄せられ、あちらからこちらへ、こちらからあちらへと誘蛾灯に引き寄せられるようにぞろぞろと歩き、集まり、散っていく観衆という幻影ばかりを見ていた。見ていた、と言ったがじつのところ私も同様にその列にもれなく加わっていたわけだから、他人の目から見れば同じように見えたことだろう。少し距離(ディスタンス?)を置かれて各所に設置された怪しげな由来を持ちそうなインスタレーションは、かたちとしては確かに作品ではあるのだが、冒頭でふれたように「作品そのもの」ではありえない。いくら凝視しても、接触しても、なんら意味が解かれることはないからだ。しかしだからこそ、その接触不可能な作品らしきもののほうにいっそう、私たちは引き寄せられていく。それはまさしく亡霊の群れ=漂泊する幻影のようだ。

 その非現実さゆえ、はかなくも強烈なこれらの性質をもっともはっきりと示すのは、展示物の存在する実空間よりも、会場の各所に設置された大小の鏡の中に広がっている(はずの)亜空間のほうだろう。事実、私は私自身が会場の入り口となるドアのノブを回して部屋へと一歩足を踏み入れた瞬間から、展覧会場で冨安の手により漂泊する幻影の一部としていつのまにかしつらえられていることを自覚しつつも、そのようにして亡霊化した自分自身の存在を見ることができるのは、その様を闇のなかに映し出す鏡を通じてのことだった。そして鏡ほど、現実にそっくりでいて実際には気配でしかない世界を表すものもないだろう。

青木美紅「1996120519691206」展の会場風景 撮影=homie*

 そういう意味では、青木美紅が同時期にナディッフの店舗入り口にあるウィンドウ(ガラス)を利用して設置した怪物=ヘルマウスの世界観も、別の入り口から鏡の中の世界に通じているかもしれない。ヘルマウスとは、ヨーロッパで中世にとりわけ頻出した現世の終わり=地獄の入り口を表す大きく口を開けた怪物の顔で、青木はその顔を、見方によっては鏡に見立てられる現実を幻影として反射させるウィンドウの全面を使ってインスタレーションとして展示している。そしてヘルマウスの喉の奥からは噴水のような水が吹き出している。

 私がこの作品を見てすぐに連想したのは、アメリカのアンダーグラウンド映画作家ケネス・アンガーが1953年に制作した短編映画『人造の水』で、それはアンガーがヘルマウス的な魔術的世界に深く浸り、映像のモチーフを随所でそこから引き出し、なおかつ青木が多用する回転するイリュージョン装置と、アンガーが映画を映画以前から存在する(リュミエール兄弟によるシネマトグラフの発明は、マジック・ランタンが発明されてから約200年後)幻影の投影仕掛け「マジック・ランタン」(通常、ガラス板に描かれた絵を使う)としてとらえていることに通底するものを感じたからだ。

 しかしそれだけではなく、ヘルマウスの喉の奥から流れ出す水はすい液(よだれ)でもあり、よだれは新型コロナウイルス感染症が蔓延する現在、飛沫はおろかくしゃみや咳にも増して不吉極まりない悪なるウイルスの池かもしれない。ちなみにアンガーの悪魔(ヘルマウス)的世界への傾倒はその数々の映画で知られるところであり、そのためにアンガーは映画という回転装置(ロール)の逆回転編集をしばしば利用する。これは古来より文字を逆さまに読んだり左右を反転させることで現世の縁が現れ、そこから悪魔が召喚される余地が生まれるとされていることに発している。つまり鏡に映った現実とは左右が反転する鏡像や、青木が使う始まりも終わりもない回転装置は、その点でもアンガー的世界に通じており、本作はヘルマウスの大きく開いた口を媒介にウィンドウ/ガラス=鏡に映った世界が内と外で入れ替わる幻影を招き寄せるマジック・ランタンでもあるように思われる。

青木美紅「1996120519691206」展より、《1996120519691206》(2020、部分) 撮影=平林岳志

 そこから読み解くとき、タイトルの「1996120519691206」の意味もおぼろげながら見えてくる。この16文字からなる数字の羅列は容易に西暦を連想させるが、アンガーに引き付けて言えば、後者の1969年12月6日はザ・ローリング・ストーンズのコンサートで殺人事件が起きた通称「オルタモントの悲劇」(アウトローの集団、ヘルズ・エンジェルスが観衆整理に駆り出されていた)で知られる日付で、殺害が起きたときにヴォーカルのミック・ジャガーが「悪魔を憐む歌(Sympathy for the Devil)」を歌っていたという話がかつてまことしやかに語られていた。そしてこの曲で、悪魔を呼び出すかのように執拗に歌の背後で繰り返されるコーラスが、青木が今回の展覧会のイメージ・ヴィジュアルに使用した繰り返される「WOO WOO」を思わせるのである(とすると、末尾に署名されている青木の署名=MikuAokiのMikuはさしずめミック・ジャガーのMickにかけられているのだろうか)。

青木美紅「1996120519691206」展のプレスリリースより

 そしてこれらの様々な要素、出来事からなる漂泊する伏線=気配は、ミック・ジャガーがケネス・アンガーの映画『我が悪魔の兄弟の呪文(Invocation of My DemonBrother)』(1969年!)に深く関わっていたことで、ひとつのサイクルを閉じる。すなわちアンガーの自選作品集のタイトルに倣って呼べば「マジック・ランタン・サイクル」となる。 では、もうひとつの西暦1996年12月5日についてはどうだろうか。しかしそれについて語るにはもう紙幅が尽きた。ここでは気配として封印するしかない。

『美術手帖』2021年4月号「REVIEWS」より)