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2022.3.18

「時代と環境に誠実に向き合うこと」で文化は生まれる。小池一子インタビュー

無印良品の生みの親のひとりであり、日本初のオルタナティブスペース「佐賀町エキジビット・スペース」の創設者として大竹伸朗をはじめとする現代作家の表現を発信してきた小池一子。「中間子」「佐賀町」という2部構成でその活動を振り返る「オルタナティブ! 小池一子展 アートとデザインのやわらかな運動」展会場でインタビューを行った。

文・撮影=中島良平

小池一子
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キャリアの始まりは人との「ご縁」

──コピーライター、編集者、クリエイティブ・ディレクター、キュレーターなど多様な顔をお持ちの小池さんですが、キャリアの始まりのお話を伺えますか。

 大学を出て、仕事とは何をするのかもイメージできず、私は大きな組織の一員になるのは合わないと思って、あまり積極的に勤め先を探さなかったんですね。そんなときに姉の矢川澄子(作家・詩人・翻訳家)がアートディレクターでアーティストの堀内誠一さんという方の奥さまと仲が良くて、遊びに行く機会がありました。そうしたら、堀内さんに明日からうちのスタジオに来ないかと誘っていただいたんです。仕事の始まりは人のご縁なんですね。

──堀内さんが監修されたアド・センターでは、コピーライターとして仕事を始められたのですか。

 名目は秘書でしたが、色々やらせていただきました。堀内さんは写真雑誌の編集もされていたので、当時は奈良原一高さん、東松照明さん、佐藤明さんなど輝くような意志を持った写真家が出入りしていたり、堀内さんのもとでデザイナーや写真家から影響を受けましたね。クリエイティブな仕事はすごいと。私にはヴィジュアル表現は何もできないと思っていましたが、大学時代に演劇をやっていましたし、文学系だったので、言葉を武器にできるかもしれないと思ったんですね。

 ちょうど高度経済成長時代で広告産業の上昇期でしたから、久保田宣伝研究所(宣伝会議の前身)がコピーライター養成講座をやるというので、夜学で受講しました。私はまだ4期生で、人数も少なかったので講師の方が目をかけてくださって、「こういう仕事をやってみないか」とお誘いいただけた。そこからコピーライターの仕事を始めて、自分の立脚点にしようと決めました。何かのアイデアをヴィジュアルと言葉の掛け算をして表現することに、一番楽しさを感じていましたね。

展覧会エントランス

──コピーライティングという職能を得て、堀内さんのスタジオから独立してフリーランスで仕事を始められたのが1960年代前半です。

 コピーライターの仕事は、金融から薬品から化学からあらゆる業種を対象にしますが、本能的に自分から発するものがないと本当のメッセージはつくれないと思ったので、自分が興味を持つ範囲に絞ることを決めました。もともと実家で洋裁の出版などもしていましたし(クララ社)、衣服をきちんと知りたいと思ったので、ファッションとテキスタイルに絞ろうと。そういう関係でテキスタイルを手がける旭化成の方と出会ったのですが、旭化成には研究室があって、雑誌や海外の情報がまだ限られた時代にそういった資料をふんだんに集め、印刷物をつくっていたんですね。

 その頃、江島任(えじま・たもつ)さんという素晴らしいアートディレクターの方と仕事をしていたところに、デザイナーの森英恵さんを紹介されて、『森英恵 流行通信』のタブロイド版をつくることになりました。のちに雑誌となって影響力を持つ『流行通信』ね。当初の目的は、とにかく海外の情報を咀嚼して伝えて、そこからある種の潮流を生み出すことでした。編集長もいなくて、執筆者の私と江島さんで写真を選んで紙面を江島さんにデザインしていただいて、シリーズものとして制作を続けたので、早く、たくさん、きちんと伝わるように書く技術は習得したのかなと思います。

──ファッションに絞ったことで、コピーライターから執筆者、編集者として仕事が広がったんですね。西武百貨店との仕事は『流行通信』のあとですか。

 そうですね。西武百貨店の宣伝部に知り合いを得て、ちょうどセゾングループ自体も発展していく時期だったので、色々と広告づくりに携わることになりました。印刷物や美術品のカタログなどですね。田中一光さんにお願いしたときには、その仕事が際立っていたので、それから代表の堤清二さんが田中さんに一括して頼むようになりました。

時代を変えた展覧会