櫛野展正連載:アウトサイドの隣人たち ④セルフビルド城塞

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会をキュレーターとして扱ってきた櫛野展正。自身でもギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。櫛野による連載企画「アウトサイドの隣人たち」第4回は、自宅に手づくりの城を築いた、古志野利治(こしの・としはる)さんを紹介する。

古志野利治さん手づくりの「城」。写真は1988年、建設中に撮影されたもの
前へ
次へ

「私は警察を知っとるよ、あんたの住所と電話番号を書きなさい」

全国各地を訪ね歩き取材していると、不審者と誤解されるのか決まり文句のように取材先に言われる言葉だ。その日、僕から差し出された名刺を受け取ったのは、91歳の古志野孝子さん。今回の取材対象でもある「城」を守り、ひとりで静かに暮らしている人物だ。

ここは、「どじょうすくい」の踊りや民謡・安来節(やすぎぶし)発祥の地で有名な島根県安来市。背後には十神山、眼前には中海を望む静かな住宅街に、手づくりの城や五重塔がそびえている。まるで映画撮影所の時代劇セットのようにも見えてしまう。作者は孝子さんの夫、古志野利治さん。1917年(大正6年)に生まれ、2009年に92歳で他界している。

「城」の周囲は自然に囲まれた住宅街

1958(昭和33)年、国鉄(現JR西日本)安来駅に勤めていた利治さんは、市議会議員に初当選。国鉄を退職ののち、以前住んでいた家を取り壊したときの廃材を使って手づくりの塀を、そして77(昭和52)年には庭先に高さ4.6メートルの大きな木製灯篭を、制作した。そんな利治さんが次に手がけたのは、「亡くなった戦友や先祖の供養のため」だという、五重塔だった。

孝子さんの話によると、「それまで建造物を手がけたことがなく、しかも様式が込み入っているため、建築を始めた当初は頭を抱えていた」という。まず京都や奈良に数度出かけて検分。清水寺の五重塔へは十数回も足を運んだそうだ。法隆寺や薬師寺の写真集、美術の百科事典や建築専門書などを片っ端から読んで研究を重ね、五重塔の置物から寸法を割り出し、虫眼鏡を使いながら図面を引き、1か月かけて設計図を描いた。庭に穴を掘って基礎の石組みやコンクリート打ちからはじめ、水準器を使ってバランスを取りながら一層ずつ積み重ねていった。制作に用いた材料はセメント6トン(150袋)、鉄材1.5トン、銅50キログラムにものぼり、取り壊した家の木材はトラック1台分だとか。当初は建築に反対していた孝子さんも、夫の熱意に負け子どもと一緒に手伝うようになったという。「わたしや息子も手伝いましたけど、90%は主人がつくっていました」と語る。そのため人件費はゼロで、総工費はわずか260万円ほど。

夏は朝5時半、冬でも7時ごろから仕事に取りかかり、雨雪の日には升組に使う材料づくりに精を出した。最上部の相輪(そうりん)と呼ばれる装飾物は宝珠・水煙・九輪・受花などで構成されているが、よく見ると宝珠はやかん、受花は家庭用のステンレスボール......と、すべて廃材が使われている。屋根の瓦は、セメントを型に流し込んで2500枚を自作したものだ。聞けば、照明設備まで完備されており、当時は安来の夜空にくっきりと輝いていたようだ。建設時の写真を何枚か見せていただいたが、強固なやぐらを組んではいるものの、中海から吹きつけたであろう強風のなか、命綱もつけずに塔の最上部で作業している光景には、身震いがしてしまうほどだ。

79(昭和54)年春、利治さんは、大工や左官の経験さえなかったにもかかわらず職人の手を一切借りずに、1年2か月の短さで、高さ14メートルもの五重塔を建立してしまった。完成当時はたくさんの見物客が押しかけ、なかには寺と勘違いして参拝に来る人もいたそうだ。

築城の様子。命綱もつけず、利治さん自ら塔の最上部に登って作業した

出雲地方の歴史書の編纂にも携わっていた利治さんは、自宅近くの十神山(安来市の神話伝説の地)に、戦国時代に「十神城」という砦が建てられていたことを知り、70歳のときからこの「城」の築城を開始した。各地のお城を見て回り本を読むなどして検討を重ね、最終的には福井市にあるお城をモデルにした。外装は専門の大工らに依頼したので、完成までは約1年3か月と早かった。できるだけ城に似せるため、石落とし・狭間(さま)・火灯窓・鯱(しゃちほこ)などは手づくりでこだわったという。重さ60キログラム、長さ1.2メートルのコンクリート製の鯱は、いま見ても本当に立派だ。なかでも苦労した銅版葺の屋根は、城の大きな特徴となっている。丸みをもたせた銅板が、どこか重厚な雰囲気を醸し出している。そして城壁には、地下にある陶芸窯で作成に失敗した陶器が、反対向きに取り付けられている。

城壁に取り付けられた陶器(左)と手づくりのしゃちほこ(右)

ついには「一国一城の主」になってしまった利治さん。当時の写真を眺めていると、地域の祭りで相撲取りの格好をするなど、皆から慕われていたことがよくわかる。そんな彼の築造を、周囲の人たちは奇異な目で見るのではなく応援し、完成した際は皆で祝杯をあげたそうだ。孝子さんによると、「城の次は十勝山に大きな観音様を建立する計画もあった」という。病に倒れ断念してしまったが、高齢になってからさまざまな築造を繰り返してきたその原動力には、「若い人に"やればできる"という精神と人間の執念を示したい」という思いがあった。市議会議員として地域のために貢献し続けてきた利治さんだからこその考えがそこにはあったのだろう。いまは、孝子さんが一日でも長く「城」を守り続けてくれることを願うしかない。

正面から見た「城塞」と、夫が残した城を守る孝子さん

PROFILE

くしの・のぶまさ アール・ブリュット美術館、鞆の津ミュージアムキュレーター、ギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」主宰。2015年12月13日まで開催された鞆の津ミュージアム最後の企画展「障害(仮)」では、「障害者」と健常者の境界について問題提起した。

http://kushiterra.com/

死刑囚による絵画展が開催

「クシノテラス」では、4月29日より確定死刑囚による絵画を中心に紹介する「極限芸術2 死刑囚は描く」展を開催。期間中には、都築響一によるトークイベントも予定されている。詳細は下のバナーより。

クシノテラスを応援しよう!

「クシノテラス」では現在、ギャラリーの修築や展覧会経費のためのクラウドファンディングを実施中。1000円から支援が可能で、リターンとしてアウトサイダー・アーティストたちの作品が進呈される。下の画像から、特設ページにアクセスが可能。