ミヤギフトシ連載02:田中慎弥の小説に見る、地方からの視線。

アーティストのミヤギフトシによるブックレビュー連載。第2回は、本州の西端で暮らす高校生が巻き込まれる権力と暴力を描いた、小説家・田中慎弥の『燃える家』。地方からの視線で物語を生み出すことで、浮かび上がる問題や歴史がある。小説で描かれた場所を歩きながら、作家の想像力に迫ります。

赤間神宮 撮影=ミヤギフトシ
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田中慎弥『燃える家』──さまざまな視線の先にある東京 ミヤギフトシ

9月末、丸亀での展示のための下見に行った帰りに、岡山から西へ向かう新幹線に乗って下関を目指した。しばしば田中慎弥小説の舞台となる街「赤間関」のモデルである場所。かつて安徳天皇が入水した海を望む土地。安倍晋三首相の選挙区であり、また、本籍地である長門市に隣接する街。本州の西のはずれ。岡山からは、思った以上に時間がかかる。

少しうとうとしながら、『宰相A』(新潮社)の物語を思い出して、眠りに抗う。『宰相A』は、母親の墓参りのために乗り込んだ電車で居眠りし、先の大戦以降アングロサクソン系アメリカ人の支配が続いているという、パラレルワールドの日本にたどり着くところから物語が始まる。旧日本人たちは劣悪な移住区に押し込まれ抑圧された暮らしを送っている。彼らはレジスタンス組織をつくり、主人公Tは、かつての革命家と似た顔だという理由からリーダーに祭り上げられてゆく。

平和的民主主義をうたい他国への攻撃を続ける首相は、Aという名だ。日本を支配するアングロサクソン系の人々のなかで、首相だけは旧日本人のなかから選ばれる。

下関駅前 撮影=ミヤギフトシ
唐戸市場周辺 撮影=ミヤギフトシ

新下関の駅で新幹線を降りローカル線で下関駅へ移動する。改札を出て、あたりを見回す。なんだか奇妙な感じがしてしまうのは、田中慎弥作品を読んだからかもしれない。まさかパラレルワールドなんてことはないか......などと思いながら駅前からバスに乗って、港の方へ。すぐにバスは賑やかな市場に到着する。

海を右手に見ながらしばらく歩くと、赤間神宮にたどり着いた。赤い色が目をひく不思議な形の門は竜宮城を模したものらしい。神宮境内の脇を行くと、耳なし芳一の像と平家一門を祀った七盛塚、その隣にある安徳天皇阿弥陀寺陵は扉が閉じていて敷地内には入れない。常に不穏な気配を感じてしまうのは、その歴史のせいか、それとも赤間神宮が舞台となる『燃える家』を読んだせいか。

水天門近くの建物に設置された古いブラウン管のモニターに、先帝祭の様子が映し出されている。境内に組まれた真っ赤な天橋を渡る、豪奢な衣装に身を包んだ女性たちの列。ざらついた画面の向こう、ぼやけた顔からは表情は読み取れない。モニターの上には安徳天皇の入水を描いた絵が掲げられていた。

赤間神宮の水天門 撮影=ミヤギフトシ
赤間神宮内モニター 撮影=ミヤギフトシ

『燃える家』(講談社)の主人公・徹は母親と彼女の再婚相手である義父、そして義弟の光日古(みつひこ)と赤間関で暮らしている。徹の実の父親、倉田正司は次期首相と目される政治家で、攻撃的な物言いで人気を博している。隠し子がいることなど誰も知らない。

ある日、義父と光日古が港に行くと、白粉ババアと人々から呼ばれていた老女が水死体となって見つかる。死体には、蟹が大量にたかっていた。それを目にして以来、光日古は、空に浮かぶ白粉ババアを幻視しはじめる。

同じ頃、徹の友人相沢が、通学する高校のクリスチャンである女性教師へのレイプ計画を企て、徹を計画に引き入れる。さまざまな人間がその計画に加担し、しまいには倉田正司に敵対する政治勢力による陰謀が企てられる。その混沌のなか、徹の義父は不倫相手の家に住むようになり、愛想をつかせた母は倉田のいる東京へと消え、家族はばらばらになってゆく。

不穏な空気を増長するかのように、白粉ババアの死後じわじわと蟹が増え始め、しまいには町中を覆い隠すまでになる。そして、先帝祭に出席するために倉田が街にやってくる。物語のクライマックス、赤間神宮の境内、嵐の中で執り行われる神事のさなか、関門海峡から押し寄せた大量の蟹が境内を埋めつくす。歩くことすらままならないほどの量の蟹を踏み潰し、服や皮膚を蟹の爪で切られながら、徹は倉田に対峙する。

800年以上前に幼い天皇が命を落としたその海から押し寄せた蟹たち、おそらく平家蟹が、現代日本の政治の中心にいる人物と、彼に立ち向かう少年を取り囲み、白粉ババアを筆頭にした女性たちが、天女のように二人の頭上で舞っている。

関門海峡をのぞむ 撮影=ミヤギフトシ
赤間神宮内、安徳天皇入水を描いた絵図 撮影=ミヤギフトシ

物語の主人公たちは、それぞれの方法で父に挑戦し、無残に敗れてゆく。彼らは、ことごとく失敗し、大切なものを奪われてゆく。『共喰い』(集英社文庫)ではガールフレンドをレイプされ、『燃える家』では母親を奪われ家庭が崩壊し、『宰相A』でも最後には体制側に取り込まれてしまう(ようにみえる)。そんな父たちの、暴力的なまでに肥大した男性性。その性の描写は、どこか滑稽かつ異様だ。

『共喰い』の、セックスの時に相手を殴る父親。『燃える家』では、倉田正司が、徹の母とセックスをしすぎて具合が悪くなったと徹に奇妙な告白をする。そして宰相Aは、遠目からもわかるほど異常に肥大した局部を持っている。そのようなグロテスクな父に抗い、自分のいる場所に留まろうとする主人公たちの姿が、下関に住みながら制作を続ける作家自身の姿勢と重なる。

赤間神宮社務所 撮影=ミヤギフトシ

地方で物語をつくることについて考える。東京にいては、見えづらくなってしまう歴史や問題を通して、離れた場所から浮かび上がってくる東京がある。僕自身、沖縄にいた十代の頃は東京に対していびつな反抗心を抱いていた。高校卒業後は大阪の学校に通い、その後、アメリカに留学した。歴史や政治について知ってゆくなかで、その反抗心は不信感へと変わり、アメリカで出身地を聞かれたときに、「沖縄です」と答えていた時期すらあった。

『燃える家』で、徹が新幹線で東京に降り立つ印象的なシーンがある。

速度が落ちてゆき、ホームに入り込んでゆく。止まる。座席から立ち上がり、通路に出来た列のうしろについて進み、車両の端まで来る。乗降口から、東京駅のホームへ出る。 途端に、列車の中に何か忘れてきたような気がした。赤間関からここまで続いてきた何かが、ホームへ足が降りた瞬間、途切れた。 田中慎弥『燃える家』(講談社、2013)
下関市内 撮影=ミヤギフトシ

視線を覆う高いビル、テレビなどで耳にしたことがある駅名がアナウンスで聞こえる。人の多さと、歩く速さ、その人並みのなかで、まっすぐぶつからずに歩くことすらままならない。読んでいて、初めて東京に降り立った時の自分を思い出した。ビザ取得がうまくいかずアメリカから帰国し、東京に越してきた時に見た、曇り空の下に立つ東京タワーの姿。東京出身でもない僕がそれに郷愁を覚えるはずもなく、あぁ東京に来たのだな、と思った。

東京の暮らしに戸惑いながら、東京タワーのモチーフを崩したり、ばらばらにしたような立体作品ばかりつくっていた。それなのに、最近は自分が東京にいることを意識することも少ない。東京タワーを見ても、綺麗だなとしか思わなくなった。

沖縄から東京を眼差すことは忘れずに、とあわてて自分に言い聞かせる。そして、沖縄だけでなく、さまざまな地方の視線の先に浮かび上がるいくつもの東京や日本の姿を、見ていけたら......。田中慎弥や青来有一など、地方で活動する作家の作品を読むたびに、そんな風に考える。

PROFILE

みやぎ・ふとし 1981年沖縄県生まれ。XYZ collectiveディレクター。生まれ故郷である沖縄の政治的・社会的問題と、自身のセクシャリティーを交錯させながら、映像、写真などを組み合わせたインスタレーションによって詩的な物語を立ち上げるアートプロジェクト「American Boyfriend」を展開。「日産アートアワード2015」ではファイナリストに選出。現在、丸亀市現代美術館での「愛すべき世界」に参加している(2016年3月27日まで)。

http://fmiyagi.com