REVIEW - 2019.8.1

茶の湯と現代美術。大森俊克評 Triple traveller「三旅人茶会」

一定の作法と美意識に基づいた茶の湯の文化と現代美術の関連性に着目し、アートコレクティヴ「Triple traveller」が茶会を3日間だけ開催。床の間の設えをインスタレーション、点茶をパフォーマンスと見立てる試みを体験した批評家の大森俊克が、その共通項を分析する。

大森俊克=文

根津美術館庭園内の斑鳩庵・清渓亭にて開催された「三旅人茶会」会場風景  撮影(すべて)=森本美絵 All photos: © Yosuke Bandai, Yu Nishimura and Ryohei Usui Courtesy of artists, TARO NASU, KAYOKOYUKI and MUJIN-TO Production

サイトに関する断想

 根津美術館の庭園にある茶室「斑鳩庵・清渓亭」で、3人の美術作家(臼井良平、西村有、万代洋輔)をメンバーとするコレクティヴ、Triple travellerの展示が行われた。会期を3日間とする本展「三旅人茶会」は、かねてから彼らがあたためてきた企画のひとつとなる。来訪者は美術館の本館から園内を通り、蹲(つくばい)のあるポイントを経て茶室に至る。室内には3人が入念に配した作品がある。手前の清渓亭が鑑賞の「前半部分」となっていて、奥の斑鳩庵では供される茶菓と薄茶をいただきつつ、さらなる彼らの作品、そして臼井が選んだ器を鑑賞する、という趣向になっている。 

展覧会の会場となった斑鳩庵・清渓亭外観

 媒体・手法という点では、彼らの表現は三者三様であるようにみえる。しかし作家たちが用意した本展の提言にあるように、朽ちた対象をあつかう万代の表現には「侘び」の美学、西村の絵画に漂う風致には日本の伝統文化の「季感」、そして臼井のガラス作品には茶器など道具立ての審美性との、それぞれ興味深い共通性がみられた。戦後日本の前衛史をひもとけば、3人組という点では「ハイレッド・センター」、旅(travel)=巡業的営為という点では、河原温も関わった「制作者懇談会」など、社会へと介入するプロジェクトやアクション的なコレクティヴの前例が想起される。しかし臼井、西村、そして万代の場合、そうした乖乱的であったり媒体の複数性を強調したりする、「言論」指向のうつろう場(ミニマリズム研究者のジェイムズ・マイアーの言う、美術表現の「機能的なサイト」)ではなく、あくまで制作の技倆、その技法面における「質」の次元で、茶室という空間への介入が試みられている。この意味で、本展では既存の作品が展示されてはいるものの、サイト・スペシフィックな状況が目指されている。 

臼井良平 Triple traveler 共作《Night drop》より 2017 ガラス

​ 臼井良平は、日常にみられる透明・半透明の液体の入った容器類(ペットボトル、水を入れて口を縛ったビニール袋など)を、ハイパー・リアリズム的にすべてガラスで制作し、そのたたずまいを再現する作家だ。万代洋輔は、山林などに投棄されていたモノを集め、それらを現場で(ローター・バウムガルテンの制度批判/民族誌的な写真シリーズのように)アッサンブラージュとして撮影する。近年では、デジタル環境についての考察のうちに、道端で拾った形容しがたい廃棄物をスキャンした、考現学的なシリーズも展開している。西村有は、半ば物語性を感じさせる風景、日常や自然、あるいは人物を、透明感のある塗りによって、光と空気をはらんだような平面表現に結実させるペインターだ。2015年前後からは、走る車、女性像、山林など、いくつかのモチーフに沿いつつ、その玄妙な空気感と情景を確かな筆致で描いてきた。  ​

臼井良平 Green tea 2019 懐紙、ガラス サイズ可変

​ 茶室にあがるとすぐに、懐紙の上に置かれた臼井のペットボトルの作品が観る者を迎える。その奥右手の床の間には、掛け物の代わりとなる西村の《Sleeping face》(2019)、そして小石をあしらった臼井の別作品がある。《Sleeping face》は、西村がブルーグレーの色合いで描く、シリーズ的な女性像にあたるものだが、筆致は近作と比べ闊達さを増しているように感じた。その顔と毛髪の描き方はどことなく植物や風景を錯覚させ、茶の湯における掛け物の本来的な意義との調和をみせている。また隣室の卓上にはあたかも日常の一コマのように、これまでに展示の機会を得なかった、西村の水彩が平置きされている。 ​

左が万代洋輔「Digitize memory」(仮題、制作中)の要素 、右が西村有《Sleeping face》(2019)。万代作品は2022年完成を目処に進められているプロジェクトの構成要素。作品が完成した際にはこれらの要素が表に出ることはないという

​ 清渓亭の空間にはこのほかに、万代の謎めいたガラス容器の作品が横たわっている。その内部には朽ちた褐色の塵芥と、そして鳥の剥製の(もしくはミイラ化した)脚部が収められている。2022年に完成予定のプロジェクトの一環だというこの作品は、別室の床の間を飾る植物の化石に猛禽類の剥製の一部を添えた万代の小品と、呼応している。「記憶をデジタル化せよ」と名づけられたこの連作は、愛知県美術館での万代の個展(2017)以前から継続し、しかし決して作家によって安易に言語化されない、未来指向の思想の一端を、転喩的に垣間見せている(*1)。 

西村有 素描 2019 紙に水彩 25.7×18.2cm

 実際、3者に共通する最大の点は、決して声高に技巧的・思想的な側面をコンセプトとして披瀝することなく、しかし経験値のひたむきな積み重ねによって、その表現を精錬するという姿勢そのものではないだろうか。そしてこの点に、一朝一夕には獲得されない、茶の湯という文化の奥深さが共鳴している。 
 社会学者のリチャード・セネットは、ガラス職人の仕事と、「儀式」とのあいだに、いくつかの共通性を見出している(*2)。水あめ状のガラスを成形する高度なテクニックの獲得は、手の先にある対象と主体の思考があたかも一体化してしまうような、脳と外界の抽象的連動を必要とする。ここで重要なのは、料理の包丁さばきと同じように、手によって間接的にガラスへと「圧」を加える動きには、つねに圧を軽減する「引き」があらかじめ織り込まれているということだ。力の付加が、つねにすでに力の「解放」を準備しているからこそ、手仕事(ガラス吹きや調理)のリズムが成り立ち、当のリズムからモノが生まれる(*3)。 

茶室の設え。李朝時代の白磁碗、水指しに大正〜昭和の水槽、茶入に明治の瀬戸 汽車土瓶(吸物入れ)他

 これを現代美術に当てはめれば、トレーニング的に高められ凝集された思考体系と技術を、アウトプットの際にいったん解放し、その表層部分や断片でひとつの世界観を提示する、ということになるだろう。セネットは、他者への責任という社会的な「圧」を基礎とする儀式においても、手仕事と似たように、それがある時点で重要な変革を迎えるという解放の予期が、その厳格な習慣・実践にとっての新陳代謝となっている、としている。茶道もまた一種の儀式であると考えれば、現代美術のような異質なコードの介入を、伝統化した形式に対する、解放のきっかけととらえることもできるかもしれない。 

 言ってみれば本展は、茶の湯という文化をたんに「借りてきた」ものではない。茶の湯という当の文化、それ自体が異なる歴史の流れに属する「美術」と静かに邂逅し、それによって変化さえしうる、そうした一期一会の可能性を示していた。そしてそれを可能にしているのは、3人のアーティストが身体的に会得している、「圧」に対する「引き」の感覚、視覚性を言語(美術の文脈主義のなかで膠着してしまった、「コンセプト」という技法)へと収束させることなく、手仕事と頭脳労働の狭間でイメージや物質性をあえて解放する、その秀逸な手際であったように感じられた。

万代洋輔 「Digitize memory」(仮題、制作中)の要素

*1──動植物の(石化した)有機的断片と茶の湯の組み合わせという万代の展示は、日本を舞台としたマシュー・バーニーの映像作品《拘束のドローイング9》(2005)での、茶会のシーンを想起させる。同作品の茶室は、壁面が燻しのかかった金色であり、室内の上部からは、龍涎香(鯨の体内で石灰化したのち排泄された物質)に発想を得た、表面を生物の甲殻で覆われたスカルプチュアが吊るされている。また(日本の伝統文化で一定の歴史を持つ)金箔は、バーニーの《リヴァー・オブ・ファンダメント》(2014)において、精神分析学でさほど留意されてこなかった、ジャニーヌ・シャスゲ=スミルゲルの昇華理論の参照を経て、複数の映像シーンと二次的な立体作品に用いられている。『死者の書』やノーマン・メイラーの小説『古代の夜会』(1983)を翻案したバーニーの同作品では、ホルス神(猛禽類として描かれる)の具現として、実物のハヤブサが扱われている。万代がフクロウの剥製を用いた同系作品は、画家の五月女哲平が企画し、栃木県小山市内で開催されたCOBRAとの2人展「夜行性」(2019年7月)に出品された。
*2──リチャード・セネット『クラフツマン 作ることは考えることである』高橋勇夫訳、筑摩書房、2016年、306頁。
*3──同書、289〜290頁、301〜302頁。