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REVIEW - 2018.9.12

自然光から浮き上がる「生」の気配
大森俊克評「内藤礼―明るい地上には あなたの姿が見える」展

空気や水、光など自然環境が持つ性質をきわめてシンプルに作品化してきた内藤礼。国内では4年ぶり、過去最大規模となる個展「明るい地上には あなたの姿が見える」が、水戸芸術館で開催中だ。ささやかな物や光の存在で展示空間全体を満たすその手法について、過去の展示を振り返りつつ、大森俊克が解き明かす。

文=大森俊克

水戸芸術館現代美術センターでの展示風景より 撮影=畠山直哉 写真提供=水戸芸術館現代美術センター(以下すべて)

水戸芸術館現代美術センターでの展示風景より 撮影=畠山直哉 写真提供=水戸芸術館現代美術センター(以下すべて)

 

枯淡の光

 本展は規模の点で回顧展に近いものだが、内藤礼の作品がいわば総花的に(時系列に沿って)展示されているわけではない。「ひそやかなラディカリズム」展(1999)で焦点とされたような、内藤の表現の微視的な感覚の誘起やミニマルな佇まいは、近年では広大な建築内部や自然空間を包括する規模のプロジェクトによって、視点と身体的動態のより緻密な関係を育んできた。

 見るべき対象が微細だからこそ、それを包む「光」や自身のいる空間のスケールを察知させるような指向性はしたがって、ホワイトキューブと呼ばれるある種合理的・自律的な近代以降の芸術の制度空間と、いかに調和しうるかという課題を突きつける。水戸芸術館の展示室はオーソドックスなホワイトキューブである。内藤は主にそこで、新作やシリーズ的な作品をいくつかの集合に類型化し、それらを変則的な回廊状の展示室に配した。これらの作品群は、想を練って伏線が仕掛けられた編曲の成果のように、律動に貫かれた「生」の気配を生み出していく。

展示風景

 それは、1970年代のカリフォルニアにおける、科学実験や東洋思想に感化されたミニマリズム的動向「ライト・アンド・スペース」(とくに、数枚のガーゼのみを光に透かしたロバート・アーウィンの展示)にも似て、建築自体の佇まいに目を向けさせる。例えば、天井から垂らされた2本の糸《無題》(2008)を周囲から鑑賞していると、その動線に重なるようにもともと床板に存在する、無数の古傷が目に入る。天井近くの壁面に展示物を探せば、監視カメラの小さな穴に気づく……といった具合に、作品のスケールと展示の余白は建築に刻まれた歴史を意識させ、水戸の地で培われてきた(現代美術の)文化的土壌がそこに共鳴する。

 多くの展示室に点在する木彫の人型作品《ひと》は、7年前の震災の際に(水戸から遠くない)甚大な被災地域で失われた命に捧げられた、鎮魂の標(しるし)であるかに思えてくる。こうした副次的な文脈を含め、パサージュ的な思考を引き出す本展の鑑賞体験を可能にしているのは、なによりも人工照明の排除だ。直島の《このことを》(2001)で試みられていた同様の工夫が、ここでは(一律な「白」に定まらない)ホワイトキューブの豊かな陰影につながる。

 ホワイトキューブ論で知られるブライアン・オドハティがかつて指摘した、展示空間の白が有する絶対的な均衡性。これを自然光のもとで解いていく本展の手法に並行してみられるのが、これまでの内藤作品にも感得された、いわば「舞台」的な身体性である。

母型 2018

 内藤が美術の世界に入ったきっかけは、大学での卒業制作だったことはよく知られている。しかし彼女はこの卒制よりも前に、演劇に深く関わっていたという。本展では展示されていないが、例えば《無題(通路)》(2008)の構成要素として、水道の蛇口からコップに水が注がれ続けている作品がある。巻貝が死ぬときに得られる分泌液で染めた極小の布が、その中で水流によって回り、揺らいでいる。生命=魂が別の形に「移った」痕跡としての布とその運動は、大和言葉で「もとほり(廻り)」が「まひ(舞)」と同義であったことを想起させる。

 民俗学者の折口信夫によれば、舞とは古来、精霊や神を呼び入れる儀式だった。これは宮廷では、「採物」という手に持って振るう道具を伴う神楽として、そして民衆のあいだでは田楽もしくは「田遊び」として行われていた。内藤による細い棒の作品《杖》(1998)などはまさに「採物」のようでもあるし、彼女の表現における、子供の遊びのような小さい素材の扱いや配置は、魂が生きられた場所としての地上と生命の外部を結ぶ、ある種の「舞(まひ)」的な身振りとしてとらえることができる。

 「もとほる」とは今日で言う「徘徊」をも意味するが、これは成人主体というより、動物や老いた存在の歩行をニュアンスとして感じさせる。本展で、天窓からの距離によって薄闇が支配する箇所では、観者は屈みがちに歩を緩め、「もとほる」ことを求められる。このとき彼ら/彼女らは、内藤の仕掛けた舞台の演者として、自らもまた遠い魂の在り処を求めていることに気づくのかもしれない。​