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REVIEW - 2018.6.22

人物像を追求する彫刻家の最新作。大森俊克が見た、ヘンク・フィシュ「耕された土地の端で」展

おおらかでユーモラスな人物彫刻により広く知られるオランダの彫刻家、ヘンク・フィシュ。その最新作が作家本人のキュレーションにより、ワコウ・ワークス・オブ・アートで展示中だ。現代彫刻を代表する作家の作品について、美術批評の大森俊克が、西欧の彫刻史に紐付けながら論じる。

文=大森俊克

展示風景 © Henk Visch 2018 Courtesy of WAKO WORKS OF ART

展示風景 © Henk Visch 2018 Courtesy of WAKO WORKS OF ART

ヘンク・フィシュ「耕された土地の端で」展
彫刻の種
大森俊克 評

 エルトン・ジョンの「ユア・ソング」という曲に、こんな一節がある。「もし僕が彫刻家だったら……って、それは無理があるな。じゃあ、巡業のショーで魔法の飲み物をつくる男だったら」。この作詞家には、「魔法の飲み物をつくる男」になるほうが、彫刻家になるよりも簡単なことに思えたのだろうか。この曲が発売された1970年が、いわゆるミニマリズムの爛熟期であり、従来の彫像ではない、幾何学的な立体物が彫刻とみなされはじめた時代であることを考えれば、これは当然かもしれない。テート・ギャラリーで展示されたカール・アンドレの作品に対する70年代の世論が冷たかったように、当時のヨーロッパでミニマリズムは一般的に理解しがたい「彫刻」だっただろう。

 ところでこの「魔法の飲み物(potion)」とは、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に出てくる水薬のことでもある。作中でこれを飲んだアリスの身体は小さくなり、彼女は奇妙な世界に迷入していく。つまりこの飲み物は、人体とそのサイズの遠近法的な比率からの脱却、そして物語の時間的な流れへと作用するが、これは美術史家のマイケル・フリードがミニマリズムの「演劇性」と呼んだ、彫刻とモダニズムの真正性をめぐる問題系へとつながる。

 オランダ出身のヘンク・フィシュの作品は、言ってみればこの「魔法の飲み物を作る男」が造る彫刻のようなものかもしれない。それは、1970年代末から西ヨーロッパで続く、人間中心主義的なある種の文学性を帯びた美術表現であり、2000年代までの「ソンスベーク」展や「ミュンスター彫刻プロジェクト」など、同地の展覧会文化が培ってきたような詩性を湛えている。この意味でフィシュの作品は、一見してミニマリズムの史的背景とは無関係である。しかし、フィシュ自身が構成したという本展の作品群のうち、とくに人物像には「演劇性」との重層的な関係性が見て取れる。

プラトーの母 2002 ポリエステル 100cm © Henk Visch Courtesy of WAKO WORKS OF ART 

 例えば、ポリエステルを素材とする漆黒の《プラトーの母》(2002)は、トニー・スミスのミニマリズム作品《骰子》(1962)の擬人性をいっそう押し進めたものにも思えるが、その手足の不在がもたらす屹立した垂直性は、人体のサイズからの逸脱を錯覚させる。針金状の金属でできたユーモラスな作品群は、椅子に見えると同時に、人体や動物という印象を与える。そこに感得されるのは、日常世界にあふれる道具の性質とその「離接」的な非連続性の感覚、フリードが言うところの「約定」である。

 しかし何より、本展のフィシュの作品から感得されるのは、オランダと西ドイツの国境近くの自然に啓発されて生まれた、ヨーゼフ・ボイスの彫刻概念との近似性ではないか。床を覆うように手足を伸ばした《ブレスレット》と《白い馬》(ともに2018)は、ボイスが「大地」の象徴として好んでドローイングに描いたウサギ、さらにはその着想元となる、ヴィルヘルム・レームブルックの彫刻《くずおれる男》(1915-16)の人体ポーズを思わせる。本展のタイトル「耕された土地の端で」は、独自の彫刻表現を育んだ西ヨーロッパという文化的な「土壌」を見つめ返し、そこになお萌芽しうる新たな視覚/歴史体験の可能性を模索するものであった。