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2018.11.9

不完全なこの世界で、アーティストとしてできること。リチャード・タトル×青木淳対談

彫刻、ペインティング、ドローイング、インスタレーション、そして言語を用いた多様な作品を発表し、ポスト・ミニマリズムを代表するアーティストとして知られるリチャード・タトル。小山登美夫ギャラリー(東京・六本木)での個展「8, or Hachi」開催に際し、かねてからタトルのファンであったという建築家の青木淳との対談を行った。

翻訳・編集協力=田村かのこ(Art Translators Collective)

展覧会会場にて、タトル(左)と青木
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「光」を与えるための表現

青木 本展のタイトル「8, or Hachi」はとても面白いですね。ギャラリーの小さいほうの部屋には小さな作品が4点、大きい部屋には大きな作品が4点配置されていますが、どのような意図で展示を構成されたのでしょうか。

タトル アーティストは、作品を通じて自らをさらけ出さなければなりません。私もほかのアーティストの展示を見るとき、その人の母親やその人自身よりも、その人のことを知りたいという気持ちで見ています。その意味で、一つひとつの展覧会は、より多くのことを観客に伝えるチャンスなのです。

 作品について言えば、誰にでもその人に合った「スケール」というものがあります。それは人それぞれ異なりますが、私の場合、スケールは作品のサイズとはまったく関係がありません。作品がどんなに大きくても小さくても、私の扱うスケールはつねに同じなのです。私が観客に見せるべきものを見せるためには、このアーティストはどういうスケールを持ったアーティストなのかということがわかるように示さなければなりません。

 人々が生きる糧は、光です。良いアーティスト、建築家、ミュージシャンなどは光を放っていて、私たちは彼らから光を吸収します。私たちは光を与えてくれる人を好きになるのです。私の作品から人々が光を受け取るのなら、そこにはスケールが関係しています。この会場には2つの部屋がありますが、空間の大きさに関わらず作品のスケールは同じです。部屋と部屋の間に展示したドローイングも、同じスケールです。光は、他人と共有できる唯一のものです。富や名声は自分の子供にそのまま渡すことはできませんが、光は世代から世代へ受け継ぐことができます。

 光とは太陽光のことではありません。例えば太陽の光が花に降り注ぐとき、太陽光は花びらに到達した時点で止まりますが、その花びらを後ろから見たときに透けてくる光がありますね。この光がまさにアートの持つ光と同じものなのです。それは、魂に栄養を与える光です。私の仕事は、自分のベストを尽くして、自分が与えられる最良のもの、この光を用意することです。

展示風景より © Richard Tuttle  Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

 小山登美夫さんがニューヨークに私を訪ねて来てくれたとき、ギャラリーの話をして、写真や図面を見せてもらったのですが、それ以上に、私の耳に入ってくる彼の声が、ギャラリーの空間について多くを語ってくれました。彼の話している内容は日本語なのでわからないのだけれど、その音を聞きながら、どうしたら自分のベストを見せる展示にできるか、ということを考えていました。アーティストなら誰でも「どうやったら自分のベストを人に与えられるだろうか?」と、つねに自問していると思います。それが光、つまりある瞬間にとらえた真実、美しさ、意味、充足感といったものをどのように人と共有するか、ということです。

 自分がいちばん価値あると思うものを人に与えるという、ある種矛盾を孕んだこの行為が、私は好きです。それが光の持つ性質なのだと思います。私たちは光を受け取るが、それは自分のものにはならず、別の人に手渡すことになる。私が作品をつくる理由も、そこにあります。もちろん作品を買ってくれる人がいれば、物理的にも人に作品を与えることになり、私は報酬を受け取りますが、それだけでは説明しきれない。

展示風景より。右は《--それは素晴らしい
こと》(2018)
© Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

揺れ動く作品の概念

青木 タトルさんの作品は、彫刻とも言えるけれど絵画とも言え、どのカテゴリーにもすっきりと落ち着かないところがあります。その自由な揺れ動きの状態が「作品」なのかもしれません。

タトル いちばん嬉しいのは、ひとつの作品がドローイングとも、ペインティングとも、彫刻とも言える状態にあるときです。そして大事なのは、作品がつねに既存の枠組みの外にあること。例えば美術館で作品が展示されるとき、私の作品を素描の展示室に置くべきなのか、彫刻の展示室に置くべきなのかわからなかったとすれば、それは私にとって喜ばしいことです。なぜなら美術館のシステムをアーティストが変えることはあっても、アーティストがそれに順応するべきではないと考えるからです。例えば今回展示しているドローイングも、本当にドローイングなのでしょうか? 額縁も大事ですし、大事な理由は様々にあります。額は二重になっているように見えますが、本当の額と嘘の額が共存しています。鑑賞者はどちらが本当でどちらが嘘か判断する自由があります。

リチャード・タトル 音楽室 7 2018 紙に鉛筆、色鉛筆 31.5×24cm
© Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery  Photo by Kenji Takahashi

 アーティストには、自由が必要です。今春中国を訪れたとき、中国人アーティストたちが持つ個人としての自由度の高さにとても驚きました。政治的自由はあまりなくても、個々人がとても自由なのです。アメリカはその逆で、政治的自由は比較的確保されていますが、個人的自由はまずないと言っていい。様々な人が集まるので、社会の中では皆大人しく振舞わなければならないのです。ですから私の作品は、つねに個人としての自由を獲得するために戦っているようなところがあります。自分の伝えたいことを伝えるために。既存の枠組みにカテゴライズされないように。

 プラトンの教えを信じているわけではありませんが、物にはそれぞれの「型」があると思うのです。テーブルにも型があるし、建築にも型がある。例えば人は版画のことを古い手法だと言うけれど、版画にも型があり、そこには過去・現在・未来がある。しかし版画の技術には過去・現在・未来はありません。だから私はこれまで版画で使われたことのない手法を用いて版画を作ろうとするのです。新しい挑戦でもありますが、同時に版画という分野に敬意を払いながらやっていることです。

 ほかの分野でも同じで、私は絵画も彫刻もこよなく愛していますが、同時にそれぞれに対する曖昧さや距離も必要だと思います。私は絵画の奴隷ではない。絵画のことを知り過ぎていたら、絵を描きたいと思ったときに「絵を描くこと」しかできないし、絵を描きたくないと思ったときに「絵を描かない」という選択肢しかなくなってしまう。そこに自由があったほうが健康的だと思うのです。アーティストとしての私の仕事は、この自由を獲得し、与えることです。因習を打ち破る私の活動をネガティブにとらえ、破壊的だという人もいます。しかし私にとっては、建設的な行為です。アートは、ドローイング、絵画、彫刻など、別々だとされるものを融合する可能性を示してくれます。そのほうが健康的でしょう? 病気の妻と暮らす私にとって、健康であることはとても重要なことなのです。

青木淳

青木 なるほど。いま、「破壊的」という言葉が出ましたが、今回展示されている作品には、アートという世界での因習的な枠組を破壊しているだけでなく、ご自身の「いままで」をも打ち破ろうとする大きな自由が感じられます。たしかにタトルさんは、80年代ごろから、それまでの素材や形態についての抑制を外して、豊穣な素材と形態の世界を広げていかれたと思います。ですが今回は、その流れともまた異なるものが感じられます。

 例えば、空間内での作品のレイアウトに驚きがあることが多いタトルさんですから、今回はどんな作品配置になるのだろうかと思って会場に来たのですが、逆にかなりオーソドックスに作品が並んでいたのでびっくりしました。しかし、壁面に展示されているそれぞれの立体の前、床の上に、紙にプリントされた日本語の言葉がメンディング・テープで留められています。これはタイトルなのだろうか。それともこの言葉も含めての作品なのだろうか、と迷います。それに、壁面の立体も、それぞれの要素が素材も形もバラバラで並列していて、にもかかわらず、なんとかばらけないバランスを保っている。床の文字も、そういう事態をもう一回り大きくしたような事態をつくっている要素のようにも感じられます。

展示風景より © Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

 つまり、ここでは作品によってかたちづくられる空間が、何かほかの世界への入り口になっているというのではなく、この現実世界が、そこに張り巡らされた並列関係において、別の顔を見せてしまっている、というか。そういう、あまり見たことのない、不思議な空間がつくられていると思いました。

タトル 私の作品の特徴は、空間をつくり出すところだと思います。男性アーティストの作品は、空間を「つくる」のではなく「使う」ものが多いでしょう。作品は大抵壁に展示するので、壁全体を使うことになるわけですが、今回の作品はとくに、作品の「前」に空間をつくり出すのです。友人に今回の作品を見てもらっていたとき、偶然ある物を作品の前に置いていたのですが、それによって作品が台無しになってしまいました。そんなことは以前には経験したことがなかったので、作品の前に必要なこの空間とはなんなのだろうと考えていたところ、その空間が言葉を欲していると気づいたのです。視覚的なものを置くと喧嘩してしまいますが、普段は情報として存在しているテキストをこの空間に配置することで、それが作品のほかの要素と融合し、視覚的な部分が放つエネルギーの振動をより強固にすることができると感じています。

 ただ、それがなぜそうなのかは説明できません。それに戸惑いすら感じますが、いまの世の中、答えが2つ以上あることはざらですし、2つの答えを受け入れていかなければいかないと思っています。

展示風景より © Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

言葉と視覚を往還する

青木 立体はつねに壁にあり、言葉はつねに床にあります。同じ平面上で混じり合うことがありません。だから、今回の作品は、大きくはそのふたつを行きつ戻りつ、見る人の頭のなかで統合される何か、ということになるのでしょうか。

タトル そうですね、ただ重要なのは、私たちの経験のなかでは言葉(Verbal)と視覚(Visual)が同じ次元にあるということです。昔からテキストと絵を組み合わせて表現する試みは多数行われていますが、それは私たち人間が自分たちの意識のなかで2つを同じ次元でとらえたいという、ごく自然な衝動から来るものです。

 アーティストが何かを表現しようとするとき、ある風景の中で「私はどこにいるのか?」という問いが立ちはだかると思います。その答えのひとつとして、絵画の伝統におけるいわゆる「消失点」がアーティストの居場所であり、それを伝えるのが作品であると思いますが、そこで問題なのは、他人からはその消失点が見えてしまうということです。私自身は消失点の上に立っているのでそれが見えないのですが、作品を眺めている他者からはどこに立っているかが丸見えになっている。そのことに直面したとき、私は耐えきれなくなってしまって、失語状態になった時がありました。「自分がつくったにも関わらず自分では見えないものを他人は見られる」という状況が嫌になって、それまで大好きだった人間全体が嫌になってしまったのです。

 でも脳の医者に尋ねたところ、人間の脳は死ぬまでに変化したり成長したりすることもありえるとのことでした。まさにそういうことが私の頭の中で起こったのだと思います。このご時世、あまりに物事が速く進むので、脳がひとつでは追いつかないような感覚があります。私の直面した問題にも、脳が先に反応して解決してくれました。その後私は自分を取り戻し、また人が好きになり、他人が私の作品に私の見えない何かを見出しても、それもひとつの自由であると思えるようになりました。

リチャード・タトル
必ずしも全て
ではないものの
兄弟姉妹
2018
布、アルミニウム、スタイロフォーム、ワイヤー、蛍光灯
119×97×19cm
© Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

青木 言葉と視覚の行き来、あるいは並列ということに、興味を惹かれます。タトルさんは以前から何冊もの、言葉とドローイングからできた本をつくられてきました。例えば、アグネス・マーティンのテキストとタトルさんのイメージが対話する『Region of Love』という美しい本があります。しかし、詩画集というのは、言葉が先にあって、それにイメージがイラストとしてあるのが普通だと思いますが、この本ではどちらも相手側を説明していません。

タトル 興味深いですね。私がテキストとイメージを使って本をつくるときは、読者が本を読む体験をより良いものにするためにイメージを添える感覚なのですが、アグネスはイメージのほうに重きを置いています。一度誰かが、彼女が書いたテキストをイラスト化しないかと持ちかけたところ「私じゃなくてリチャードがやるべきよ」と言ったそうです。何年も後にそのことを聞いて、彼女の要望に応えるため、テキストからビジュアルを起こそうとチャレンジしたことがあります。

 私の好きなアーティストにベルギー人のジェームズ・アンソールがいます。彼は言葉とイメージを巧みに同じ次元に表現します。ベルギー人アーティストには、マグリット、マルセル・ブロータス、ヤン・ファン・エイクなど、言葉とイメージの融合に長けたアーティストがたくさんいて、アンソールがそれをどのように成し遂げたのか学ぶため、彼の作品と私の作品を一緒に見せる展覧会を開催しました。彼の作品が素晴らしいのは、失ったものについて考察する余白があることです。19世紀の産業活動のなかで、機械と人間を分離する試みが最初はうまくいったものの、後に人々がお互いを破壊し合う兵器の生産につながってしまったことについて、再考するよう促しているのです。

 様々な時間を体験できる作品は多くありますが、彼の作品の場合、様々な要素が別の空間に配置されるように描かれていて、鑑賞者はその空間を自由に行き来できます。面白いのは、彼の作品に使われる言葉とイメージは鑑賞者の意識と経験のなかで同じ次元に存在しますが、実際の絵の中にはひとつとして同じ次元に描かれたものはありません。でも現実世界だってそうでしょう。実際の世界では、言葉やイメージが同じ次元に存在することはありえないので、私も作品を通じてそれを同じ次元に共存させようと制作するのです。

リチャード・タトル
私のことについて
お話しします。
2018
布、アクリル、ワイヤー
23.5×24.5×3cm
© Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

 ここ100年の歴史のなかで、人々が人々を殺すジェノサイド(大量虐殺)が何度も繰り返されていることは、本当にひどいと思います。何がひどいかというと、こういった集団殺害は戦争とは違って、かなり理性的な判断によって行われているという点です。人々が狂気に陥ったのではなく、「こういう理由でこの人たちは抹殺されるべきである」といった議論が交わされ、論理的に決断される。それは、とても恐ろしいことだと思います。

 このようなことが起こるのも、機械と人間を分離しようとしたからであり、虐殺の方法はいつもその機械技術の発展に支えられています。アンソールは、当時の画家のなかで唯一、この私たちの歪んだ倫理観について警笛を鳴らそうとしていました。彼の作品は決して目に優しいものではありませんが、そうあるべきだったのです。私は、彼の後の世代として出てきたキュビズムが嫌いでした。なぜならキュビズム画家たちの態度は、機械と人間の分断を甘んじて受け入れようとするものだったからです。ただ、キュビズムの主張には、アートは展示壁から脱出し三次元の空間に飛び出すべき、というものがありました。それに関しては素晴らしい試みだったと思います。

青木 タトルさんの初期の作品のなかで、もっとも有名なのは《Wire Piece》でしょうが、この作品も、壁面上の鉛筆の線と、その手前の空間に迫り出したワイヤーの線と、そのワイヤーの影の線という、もともと別の次元にある線が共存する作品になっていたことを思い出しながら聞いていました。 それでやっぱりお聞きしたいのは、一言で「線」と言っても、さまざまな次元にありえるものなのか、ということです。なかでも、タトルさんはアグネス・マーティンとずっと仲が良かったと思うのですが、お二人の線も、作品も、ずいぶんと異なっているように感じられるのですが。

展示風景より © Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

タトル そうですね。エルスワース・ケリーは、絵画における線を外側に押しやり、線に色を与えようとしました。アグネス・マーティンはケリーの線を絵の中に再び押し入れ、できるだけ多くの線を存在させようと試行しました。私はそれに対し、第三の線を描こうとしたと言えるでしょう。外に押しやられる線と中に戻ろうとする線のあいだにあるようなものをイメージしました。それは自然なことのようですが、いつでも描けるわけではなく、ある感覚を覚えたときにだけ、描けるものです。

 人々はアートを不合理なものだと思っていますが、私は理にかなっていると思います。アーティストは理性的で筋の通った問いを投げかけます。その答えは不合理なものでも良いのですが、問い自体は意味をなすものではならないといけない。問い自体が不合理なものだと、その答えを見つけることはできません。アート作品は、自分の言いたいことを言い、自分の言いたくないことを言わなくて良い唯一の存在だと思います。誰でも日常社会では、自分の思っていないことも言わなければならないでしょう?

 私にとって手はとても大事です。子供のころ兄と喧嘩して殴られると、祖母が「あなたも殴り返せばいい」と言いました。でも私は「僕の手はいろんなものに使わなきゃいけないから、兄を殴って手が傷ついたら嫌だ」と返しました。ただ先ほどふれたように、私の世代は機械にすべてを委ねることを目標としていましたから、自分でつくるのではなく工場でつくらせるのを良しとしていたのです。私にとっては、思考・心・手、この3つがバランスのとれた三角形を成していないとうまく機能しません。この3つが、私の人生を構成しています。

青木 今年、私は『フラジャイル・コンセプト』という、建築のエッセイをまとめた本を出版したのですが、このタイトルで、自分のコンセプトについての考え方を表わそうとしました。つまり、コンセプトとは、つくる先にある「完璧な世界」のことではなく、プロセスのなかの一瞬、一瞬における判断の束のこと、あるいはその特性のことであって、その意味で、コンセプトは本質的に、リジッド(堅固)なものではなく、フラジャイル(繊細)なものにならざるをえないのではないか、ということです。

 じつは、私がタトルさんに惹かれるのは、その作品に、つくるというプロセスのなかでしか出会えないような、一瞬、一瞬の、思いがけない面白さの発見を追体験できるように感じられるからです。

リチャード・タトル
これらの違い
2018
布、プラスチック、紙
25.5×28.5×3.5cm
© Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

タトル そうかもしれません。青木さんの作品はウェブサイトで興味深く拝見しましたが、とくに「面白いことなら何でもしようと思った」という記述が面白かったです。何か面白いものを見つけること、そして動きながら考え、また新しいものが見つかったら立ち止まる。それはとても重要なことだと思います。なぜなら、アーティストはどこかの段階で立ち止まって「何が本当に面白いのか?」と考えなければならないのです。それは、現代のモノに依存した文化においては矛盾を孕んだ問いです。私たちを取り囲むすべてのモノより、いちばん面白いのは結局人間だからです。作品で針金を使うのは物質的文化への抵抗を示すためでもあります。月日が経つと、機械と人間を分けて考える思想は、私たちがつくり出したひとつの考え方にすぎないということを忘れてしまいがちです。

 《Wire Piece》を制作するときはまず鉛筆で線を描き、その次に針金を使うのですが、なるべく自分自身を取り払い、ほとんど作品の「外」にいるような感覚で制作しています。見る人に彼らのためのスペースを用意したいからです。観客は作品を見て、これまでの人生にはなかった空間を見つけることになります。もちろんここにも素材としてのモノの存在はあるのですが、それは最小限にとどめ、この物質的社会のなかでいかに人と人が直接つながれるか、ということに重きを置いて制作しています。

 この世界と「完璧な世界」には明らかに違いがあるわけですが、アーティストがやるべきことは、この世界に何かを持ち込むことで、観客にあたかもこの世界が「完璧な世界」であるかのように楽しめる可能性を示すことだと思います。

会場にて