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INSIGHT - 2019.5.9

第16回芸術評論募集
【次席】北澤周也「東松照明『日本』(一九六七年)と「群写真」―社会化された自由な「群れ」―」

『美術手帖』創刊70周年を記念して開催された「第16回芸術評論募集」。椹木野衣、清水穣、星野太の三氏による選考の結果、次席にウールズィー・ジェレミー、北澤周也、佳作に大岩雄典、沖啓介、はがみちこ、布施琳太郎が選出された(第一席は該当なし)。ここでは、次席に選ばれた北澤周也「東松照明『日本』(一九六七年)と「群写真」―社会化された自由な「群れ」―」をお届けする。

東松照明『日本』より〈アスファルト〉

はじめに

 東松照明(1930~2012)の初期作品『日本』(1967)は、東松が唱えた「群写真」概念の本質を、実践的に内包させた写真集である。そこでは、異なる時空間で撮影されたテーマ別の写真群が、構図やテクスチャー、あるいは被写体の同質性によって内容的断絶を持ったイメージ同士をリンクさせると同時に、書籍における読みのリニアな方向性を解体する様々な紙面編集上の仕掛けが施されており、それが多様な読みのベクトルを発生させている。 

 『日本』に見出される写真の群れの「社会化」は、「戦後日本」というつかみどころのないものの全体性を、読者の内部に事後的に立ち上がらせる紙面上の「ネットワークシステム」なのである。つまり、「群写真」は──遡及的に言えば──、インターネット空間に散在する「画像」あるいは「デジタルイメージ」の様相として見出されるのだ。

 雑誌連載のものを含め既発表の写真を自ら新たに写真集として再構成する「群写真」は、写真家で編集者の名取洋之助(1910~62)が提唱した「組写真」の思想との対立のなかで誕生したものである。

 『日本』が出版された3年後の1970年、東松は自らの方法論を「群写真」と命名し、次のように定義づけている(*1) 。

 写真と写真を組み合わせるのは、単写真のおしゃべりを止めさせるためではなく、逆にさらに多くのおしゃべりをさせるためだ。はっきりとした意図をもって、写真を複数で提示すれば、それは単写真の持つ音量をさらに増幅する。このような群としての写真をぼくは、名取氏のいう組写真と区別するために、「群写真」と呼びたい。
 群写真は写真をマッスとして、星雲状の塊として提示した状態をいう。したがって、ストーリーをもたぬ群写真では、5Wも起承転結も問題とはならない。群写真は、名付けられる以前のさまざまな現実の対応物として、見るものの前に投げだされる。群写真は、自ら全体の方向性を示しはする。だが、写真の意味付はやはり文字によるしかない。

 群写真は、「はっきりとした意図をもって」写真を組み合わせることで、「単写真の持つ音量をさらに増幅」させるのだという。それはつまり、写真の群れを社会化することにほかならない。社会化は、制限と自由の導入によって成り立ち、そこには制限を利用する自由もあれば、制限された自由も存在する。つまり、写真の音量の増幅は、個(単写真)に与えられた自由(野性的性質の群れに与えられた自由)を意味するものの、その背景には明確な意図(読者に緩やかに働きかける「インターフェース」としての仕掛け=制約)が存在するのだ。そして、そこに読者が介入することで、そのとき初めて、「群写真」のネットワークは機能するのである。

 本論考の主たる目的は、東松によって先のように解説された「群写真」が具体的にいかるものであったのか、さらに写真集という書籍形態のなかで試みられた「群写真」には、編集上のシステムとしていかなる普遍性が見出されるのかという点を、初期作品『日本』を主たる手がかりにして明確にしてゆくことにある。

 1970年に東松によって「群写真」と名付けられたこの概念の検証は、いまだ十分になされているとは言えない。戦後の写真界において決定的に大きな影響力を持っていた東松の当概念を検証することは、現在の写真動向へと続く「戦後日本写真史」の解体と再編成に関わる重要な作業であることは言うまでもなく、加えて、相互参照的なイメージのやり取りを促す「群写真」は、とりとめもないイメージの「群れ」を監督するインターネットシステム、あるいはインターネット空間において氾濫する「画像」や「デジタルイメージ」にも通ずる点においても、ここに現代的意義を見出すことが可能である。

 また、『日本』において目指された「戦後日本」というつかみどころのないものの表象は、つまり、表象不可能なものの表象として見出されるべきである。このことは、1960年代半ばからの東松と被爆都市長崎との出合い、また、60年代後半からの在日米軍基地とその周辺への取材をきっかけにした「沖縄」との邂逅のなかで制作された主要な写真集(『〈11時02分〉NAGASAKI』( 1 9 6 6 )、『OKINAWA沖縄OKINAWA』(1969)、『太陽の鉛筆』(1975)の存在に鑑みても、東松が「戦後」あるいは「日本」という表象困難な対象への接近を試みた写真家であったことは明らかであり、それを可能にしたものこそが「群写真」であったのだ。

 以上のことからも、「群写真」の解明は、「東松と長崎」、「東松と沖縄」という壮大な主題を新たに検証するための最善の準備として必要不可欠なものであり、そのことが同時に、現在にまで及ぶ「戦後日本写真史」の再構築にも直結するのである。

 『日本』の構造分析および関連言説から導き出される「群写真」概念の解明は次のような手順で行われる。まず「群写真」の誕生と大きく関わる名取が、生涯にわたって提唱し続けた「組写真」という方法論についての考察を中心に、「群写真」概念誕生の前段としての「名取・東松論争」(1960)を概観してゆく。その後、先行研究を参照しながら「群写真」の骨格をあぶり出し、『日本』で実践された具体的な「群写真」の方法論を検証する。

 以上に示された方法と構成に従って『日本』の深遠に潜り込み、内部で複雑に絡み合う要素を慎重に紐解いてゆくことで、「群写真」概念の本質的性質を暴き出し、がいかなるものであり、東松が「群写真」によっていかなる表現を目指したのかを明らかにする。

 一、「組写真」と「名取・東松論争」再考

 先の「群写真」の定義において「名取氏のいう組写真と区別するために」という一言が明記されていた。そのことはつまり、群写真が、「組写真」とは非なるものであることと同時に、「組写真」に意識的であったことを示している

 「組写真」は、名取洋之助が、1930年代初頭にドイツから日本に持ち込んだもので、グラフ雑誌において当時もっとも有効とされた「フォト・ルポルタージュ」の手法である。名取は、組写真の具体的な特徴について、次のように説明している(*2) 。

 カメラマン、あるいは編集者の意図したように読ませることのできる写真、それもそうとう正確に読ませることのできる写真が誕生しました。それが「組写真」です。(中略)何枚かの写真を並べて見せることは、話の順序を付ける、時間的、距離的な推移を表現するという機能も果たします。というよりも、組写真の起源は、むしろ、この目的のためでした。私たちがよく「できるまで写真」と呼んでいる、キャラメルができるまでとか、橋ができ上がるまでとかいった、製作過程を追うだけの組写真です。この場合、写真が何枚か上下に並んでいれば、上が時間的に前のもので下が後、つまり上が原因で下が結果というルールがあります。

 これに加えて名取は、そこに付されるキャプションの役割を「写真をどう読むか。そのいとぐちをつける」ものであると述べている。組写真の性質において特筆すべきは、並列した写真が前後や左右の関係において原因と結果を指し示すようにレイアウトされる点である。組写真とはつまり、「時間的、距離的な推移を表現する」ように複数枚の写真とキャプションを組み合わせることで、「編集者の意図したように読ませる」ための手法であると要約できよう。また、帰国直後の名取と『光画』メンバーとの合流により、ルポルタージュ・フォトが伊奈信男(1898~1978)によって「報道写真」と翻訳され、それ以降、組写真が、報道写真を形成する手法として、戦前及び戦中において『NIPPON(*3)』に代表されるような国策プロパガンダに有効な手法として用いられてきたことも特筆すべき事象である。 

 東松が群写真と命名した自身のスタイルが、組写真を念頭に置いていることは確認したが、その契機を、いわゆる「名取・東松論争」(1960)に見出すことができる。論争の内実はおおよそ次のようなものだ。

 論争は、『アサヒカメラ』1960年9月号に寄稿された写真評論家の渡辺勉による「新しい写真表現の傾向」に端を発している。

 渡辺は、物体の像を映し出すというメカニズムを通して行われる「表現」としての映像の重要性に着目し、東松ら若い世代の作家に見出される特徴について次のように記している(*4)。

 従来の写真表現よりも、より一層映像そのものに深い関心をよせ、その特徴的な性質を積極的に駆使しようとしているところに相違がある

 渡辺が言う「従来の写真表現」とは、写真がストーリーを展開させるための手段として扱われてきたことを指しており、それに比べて、東松らは「映像にあくまでも物をいわせようとするところが、従来の写真の傾向と相違している点であり、そしてそこに新しさがある」と評した。

 以上のような渡辺の評論に対して同誌10月号で名取が真っ向から反論する。名取が名乗りを上げたのは、名取自身が、渡辺の言うところの「従来の写真表現」の歴史を担ってきたことを自負していたからにほかならない。「新しい写真の誕生」と題されたテキストで名取は、「その手法、あるいは結果だけを、問題にするならば、決して新しくはない。」と反論し、渡辺が例に挙げた作家のなかから東松と長野重一(1925~2019)の作品を取り上げ、その比較を開始する(*5)。

 東松と長野は名取が編集長を務めていた『岩波写真文庫(*6)』の写真家として働いていた共通の経緯を持つことから、名取は、彼らが自らのもとで「報道写真家としてスタートした」ことを強調したうえで、長野の《政治屋たち》[図1]は「時間的経過を追ったひとつのストーリーで、政治家というものを、誰にもわかるように表現している」と評価するいっぽう、東松の代表作「占領(*7)」シリーズの《視線》[図2]に対しては、「これはもっぱら印象だけの写真だ。他人にわからせるという努力はほとんどなされていない。人によっては何が何だかわからないだろう。長野の写真を巧みな解説記事だとすればこれは写真で描いた詩といえよう」と批判的見解を述べている。しかしながら、「写真で描いた詩」という表現は、皮肉が込められているいっぽうで、東松の表現を的確にとらえた鋭敏な批評であるとさえ言える。

[図1] 長野重一《政治家たち》(『アサヒカメラ』1960年9月号より)
[図2] 東松照明《視線》(『アサヒカメラ』1960年2月号より)

 続けて名取は、東松の写真観に対して次のように批判する(*8)。

  報道写真は特定な事実、特定な時間を尊重する。前にも書いた通り東松はこの報道写真の、特定の事実尊重を捨てた。時とか場所とかに制限されない方向に進もうとした。逆にいえば、報道写真とは、時間、場所にとらわれないことによって絶縁してしまったのだ。

 名取は、東松が報道写真と絶縁し、「事実尊重を捨てた」と強調して批判したのだ。名指しで批判された東松は、これに対し、同誌の11月号に「僕は名取氏に反論する」というテキストを寄せ、名取への反論に取り掛かる。東松は、名取による一連の批判を要約したうえで次のように反論する(*9)。

 かりに僕が、いわゆる報道写真家だったとしても、途中で特定な事実尊重を捨てたおぼえはない。いわゆる報道写真家を否定したまでだ。名取氏は、僕が「報道写真家としてスタートした」と思い違えることで、換言すれば、既成の事実として僕を位置づけることで、真実を見失ったのである。(中略)

 報道写真という言葉が持つ重量感は、すでに過去のものである。かつて、ドイツから日本に報道写真の理論を輸入した最初の人が名取氏だったとすれば、その功労に敬意を表することを惜しむものでは決してない。しかし、写真の動脈硬化を防ぐためには「報道写真」にまつわる悪霊を払いのけて、その言葉が持つ既成の概念を破壊することだと僕は思う。 

 東松は、名取の保守的な態度に対して、報道写真はもはや「過去のものである」と切り捨て、そのような態度の停滞による「写真の動脈硬化」を切り開くためには、報道写真に付きまとう「悪霊」と「既成の概念」を破壊しなければならないと反論した。報道写真に対して「悪霊」という言葉が用いられているのは、報道写真が戦争に加担してきたという事実に対する批判が込められているからにほかならない。

 名取は、渡辺の評論への反論を介して、自らの教えを守ってきた忠実な教え子である長野重一を擁護することで自らの立ち位置を確保しようとしたのであり、そのための「捨て石」として東松を巻き込んで批判したという様子である。これに対し東松は、かつての報道写真が、「写真の動脈硬化」を引き起こしうるほどに影響力を持っていたことを暗に認めながらも、破壊によって「戦後」がもたらされたように、「破壊」を以てして──破壊という行為は、積極的な「関与」を意味する──「戦後の写真」を自覚的に引き受ける覚悟を示したのである。

 二、「群写真」の 骨格

 名取・東松論争の分析をもとに「群写真」の性質を明らかにしようと試みた写真研究者の林田新によれば、群写真は、「それぞれ固有の内容的・形式的な特徴を持つ写真を、類似性が見出されるべく相互に組み合わせていく編集技法(*10)」と定義づけられている。林田は、東松の初期作品から「占領」シリーズの《HARLEM(黒人街》[図3]を参照し、個々の写真についてのディスクリプションから、構図、被写体および撮影、編集技法に関わる「類似性」を指摘し、それらが見出されるように写真同士を組み合わせることで、「全体を通じて一つの方向性を持った、曰く言い難いイメージを顕現させる」という。

 『アサヒカメラ』1960年1月号から3月号まで連載された「占領」シリーズは、掲載ページ冒頭に「とつぜん 与えられた 奇妙な現実 それをぼくは〈占領〉と呼ぶ」というエピグラフが毎号同様に記されており、それ以外に写真の内容を説明するようなキャプションは一切添えられていない。さらに特筆すべきは、これらが隣接する写真との関係において必ずしも時間的推移を表すわけでもなく、また文化的な読みの導線に従って原因と結果を絶えず繰り返すようなストーリーを持ちえていない点である。

[図3] 東松照明《HARLEM(黒人街)》(『アサヒカメラ』1960年1月号)

 「占領」シリーズが発表された1960年当時、同世代の写真家らがいまだ典型的な報道写真のスタイルを用いていたのに対し、突如として登場した東松の写真群に対して当時の評論家は困惑の色を隠せなかった。写真評論家の福島辰夫は「本当に困ったのは東松の『HARLEM』だ(*11)」と述べ、同じく評論家の伊藤知巳は「今月いちばん頭を痛めたのはやはり東松照明の『HARLEM』の取り扱いである(*12)」とし、奇妙な東松作品に対する評価に評論家たちは頭を悩まされていたのである。

 東松によるそのような表現に対し名取洋之助は「写真で描いた詩」であると表現したわけだが、では、その「詩」は何を表象しうるのだろうか。林田の定義に戻れば、群写真は「曰く言い難いイメージを顕現させる」と述べられていた。この点を読み解くものとして、東松の次のような発言を参照してみたい。

 東松は、ジャン=リュック・ゴダール(1930~)の『新ドイツ零年』(1991)を例に挙げ、ゴダールによる映画編集と自身の写真集を編むという行為が類似しているとして自らの方法論に関して次のように述べている(*13)。

 ぼくは、「組写真」という言葉を否定して、「群写真」という言葉を使ってる。基本は一枚一枚の写真だけど、それを群化することによって、重層的なイメージがでる。映画のように時間を編むのではなくて、空間を編むのですが。

 このなかで東松は「群化」という言葉を用いて自らの手法の性質を示している。組写真の否定による「群化」とはつまり、秩序や制約の拒否であり、時間的推移や空間的連続性を考慮しない非ストーリー化なのだ。しかしながら、ことはそう単純ではないように思われる。東松が写真を用いて「空間を編む」のは、「重層的なイメージ」をつくり出すためであり、この重層的なイメージの発生こそが、林田が述べたような「曰く言い難いイメージ」を顕現させるわけだが、では、もし「群化」が無秩序を意味するのであれば、東松による先の群写真定義の末尾に明記された「群写真は、自ら全体の方向性を示しはする」という一文と矛盾するように思われる。それは、無秩序が生み出す多様なベクトルは、制御されえないからこそ「無秩序」たりえるのであり、もし本当にそうであるならば、「全体の方向性」など示せないはずだからである。つまり「群化」とは、直接的に無秩序状態を指すのではなく、無秩序という「秩序」を形成することにほかならないということである。

 組写真は、写真が本質的に持つ意味の充満をキャプションと写真の組み合わせによって制御しようと試みた。つまり、写真の本来的な、野性的な群れの性質に秩序を与えることで、それらを統合しようという試みなのである。それに対し、東松が用いた「群化」とはつまり、写真を本来的な群れに帰すのではなく、むしろ、旧秩序から新秩序への移行なのであり、解放という名目のもとのさらなる「拘束」であったのだ。

 また、東松は先の引用において「空間を編む」と述べているが、これは、シークエンスの絶えざる流れによって編まれる時間的推移(映画)と、読者のパーソナリティと直接的に結びついて「重層的なイメージ」をもたらす群写真の場における空間的推移の相違を示している。ここで東松が述べたのは、映画一般の普遍性、つまり、観者がシークエンスの受容の仕方を決定しえず、物理的に組み換え不可能で非可逆的なシステムと、それとは区別されるものとしての東松の「群写真」── 物語は存在しないが写真集という形式上、可逆的で、シークエンスを決定しづらい、あるいは「させない」表現形式との違いであると言えよう。

 さらに、以下に引用する東松の発言も、「群写真」概念を解明するうえでひとつの鍵を握っているように思われる(*14)。

 六〇年代のぼくはアメリカの社会学者ダニエル・ブーアステインの「幻影の時代」を読んでおもしろがっていた。フィクションとドキュメンタリーの境界があいまいになる時代。人工的につくられたものが、自然物を凌駕するという時代の走りです。いまふうにいえば、「ヴァーチャル・リアリティ」。そこで問題となったのは、事実と虚構の関係。ドキュメンタリーとフィクションを区別しない。写真の世界では、それまでテイクする(撮る)写真とメイクする(作る)写真に分けて考えられていた。だけど、どっちかでなきゃならないという理由はないし、二文法に拘束されたくない。

 フィクションとドキュメンタリーの境界が曖昧であることを自覚できるのは、まだその両方を行き来できる立場にあるものの特権である。しかし、曖昧性を完全に排除し、疑う余地を与えることなく強制的に意識を誘導させる組写真の場合、曖昧性を自覚する特権は与えられていない。いっぽうで、時空間的な分散を持つ「群写真」によってもたらされる、いわば虚構の全体性としての「重層的なイメージ」においては、読者との対面において絶えず不安定な曖昧性が付きまとい、読者は朦朧としながらも曖昧な世界──「曰く言い難いイメージ」の最中を彷徨わされることになるのである。

三、『日本』の構成 

[図4] 東松照明『日本』(写研、1967)

 『日本』[図4]は、『〈11時02分〉NAGASAKI』(1966)に次ぐ2冊目の写真集である。1955~67年の12年間に撮影された日本の風景がモノクロームで収められており、体裁は、19.6×22.6cm、総頁数198頁のハードカバーである。その内容は、〈吹きだまり〉〈恐山〉〈アスファルト〉〈風景〉〈まち〉〈ghosttown〉〈チンドン〉〈家〉〈占領〉という9つのセクションに区分けされて構成されており、このうち〈占領〉セクションが特に膨大で、全体の約3分の1の分量を占めている。これらどのセクションにも各冒頭に見出しのみが付されており、それ以外に個々の作品に対するキャプションなどは皆無である。

 特筆すべきは、山本太郎(1925~88)、岡田隆彦(1939~97)、福島辰夫(1928~)、伊東光晴(1927~)、多木浩二(1928~2011)、石堂淑朗(1932~2011)、磯崎新(1931~)、東松照明という1930年前後に生まれた東松と同世代で分野の異なる言論者たちのテキストが、写真と「同等」に扱われるものとして各セクションに挿入されている点である。「同等」であると述べたのは、テキストの内容が、それらが挿入された各セクションの見出し及び主題と対応していながらも、決してイメージ内容を説明的に解説し、補足するようなものではなく、むしろそれぞれが筆者個人の経験を基に、ひとつの個性的な「映像」を展開するようなテキストになっているからである (*15)。同等という言葉が言い過ぎならば、その性質を「BGM」と言い換えてもよいだろう。

 また、それら語りのバックグラウンドにはどれも体験されたものとしての「戦争」、戦後復興から高度経済成長にかけての「都市化」、あるいは内面化されたものとしての「戦後日本」が影を落としている。多木と東松は戦争体験や占領を語り、石堂や伊東は戦後の市井の雰囲気を回想した。磯崎や岡田は、批評的に戦後の都市化と建築を再考し、山本や福島は抽象的な表現を用いた鋭い視線を詩的に言語化してみせたのだ。

 テキストの背後に落とし込まれた「戦後日本」という主題の連関性は、テキストが配されたセクションにのみ有効な「BGM」として機能するのではなく、『日本』を時空間的に分割するセクションという区切りの制度を解体しながら、写真集の全体性としての「戦後日本」を醸し出すよう機能していると言えるのだ。

四、「群写真」の 具体的な効果

 群写真は、「全体性」を示すように機能するはずであるが、一見して連関性の見出しがたいテーマ別のセクション(区切り)を有する『日本』において「全体性」はいかにして示されうるのだろうか。東松による無秩序という秩序の形成=群化の手法を「写真を編む」という観点から具体的に暴き出してみたい。

[図5] 『日本』より、左上から時計回りに〈吹きだまり〉〈せともののまち〉〈おりもののまち〉
〈せともののまち〉〈チンドン〉に含まれる作品

 初めに、[図5]をご覧いただきたい。ここに挙げた5点は、煙あるいは水蒸気などの同質の「現象」に焦点を絞り、筆者が任意に選択したものである。これらは個々に、各セクション内のシークエンスから感じ取られる雰囲気によって、それぞれがある一定の意味内容を担わされている。例えば、伊勢湾台風の爪痕を取材した〈吹きだまり〉は、倒壊した家屋から立ち上る煙などから災害直後の「寒々しさ」と「絶望感」の漂う風景として読み取ることができ、あるいは〈せともののまち〉では、町にそびえる長い煙突から吹き出す黒煙が、瀬戸物を焼き上げる際の窯焚きによるものである、というように、それぞれが各セクションの内部で「一時的に」一定の意味を帯びるのである。意味を帯びるのが「一時的」であると述べたのは、個々にイメージの内容を補足するようなキャプションが添えられていないことに由来しており、読み取られる記号内容(セクション内の写真)は、セクションの見出しによって、ある程度の方向付けを受けるのみだからである。

 また、意味内容が辛うじて読者によって補われるのは、キャプションの不在により、宙吊りにされたイメージと対面した際の苛立ちを解消するためであり、読み手は見出しやテキストと関連付けながら、どうにかして「目の前に投げ出された(*16)」イメージを読み取ろうとするのだ。しかしながら、読者の視線が別のセクションに移ったとき、以前のセクションにおいて行われた「読む」ための意味付けは、そこではもはや用をなさず、かつての意味付けは、記憶として希薄なものになってゆくと考えられる。つまり、以前のセクションで対面したイメージが、かつて担っていた「寒々しい」「絶望的な」というような意味内容は、セクション内での連関性を見出そうとする読者の読解の問題(安堵の欲求)であるため、ひとたび別のセクションに移動すれば、それらのイメージは、ほどけた数珠のように、再び宙吊りのイメージへと分散され、セクションを読み取るためのかつての「関係性」は、朦朧とした記憶として取り残されるのである。

 そのとき再び、今度は読み手によって、宙吊りにされたイメージは、記憶の内部で、特徴的な、空虚な記号として、この場合、「煙や水蒸気のある風景」として受け継がれることで、その後において内容および形式的に近似した写真に出くわしたとき、イメージの表層に見出された現象の類似項として再び参照される対象になるのだ。これが群写真におけるイメージの「リンク」である。

 これに関連して、『日本』には、イメージ同士の結合がよりスムーズに行われるよう促す、レイアウトに関する仕掛けが見出される。

[図6] 『日本』より、《アスファルト》(左)と《恐山》

 [図6]は、〈恐山〉セクションの最後の1枚と、隣接する〈アスファルト〉セクションの最初の1枚を並列させたもので、これらの写真は異なるセクションに属しているものの、それぞれ隣り合う見開きに位置するものである。〈恐山〉セクションに続く〈アスファルト〉のセクションは抽象的なイメージの連続で、それ以前のセクションとは明らかに異質であり、一見するとそこに大きな断絶があるかのようにみえるが、[図6]の2枚を並べて比較してみるとそこには明らかな構図上、あるいは紙面編集上の連続性が見出される。2点は、見開き右側ページをフルサイズで独占し、そこから左側ページのおよそ4分の1程度まではみ出すようにして、ちょうど正方形になるように掲載されている。

 また、《恐山》では、水面下の砂地とそこに埋もれる石や岩、あるいは《アスファルト》の表面に散らばる物質との関係から、両者はともに実際の地を支持体としており、そこにはイメージにおける「地」との二重の「地」の共有が見出されるのである。さらに言えば、ともに画面右下において《恐山》では水面に反射した雲が白く抜けており、《アスファルト》では細かい物質が銀河を形成するようにして集合している部分が画面上でもっとも高い明度を持っている点においても構図上の類似を指摘することができるのだ。

 このようなレイアウト上、構図上の連関性が、セクション同士の内容的断絶/非連続性を、連関性から得られる連続性へと見事に変換させており、写真集全体において断絶を感じさせることのない流暢な読みを実現させている。このことはまた、セクション制度の解体をも意味しているのだ。

 さらにもう1点、『日本』に見出される群写真の編集技法として、「流暢な読み」とは反対に、読みへの「懐疑」を与えるレイアウトの例を参照したい。[図7]は、〈アスファルト〉セクションから抜粋した見開きである。当セクションの作品は、どれも金属片などの物質が散乱したアスファルトの表面をそのざらついたテクスチャーを強調するかたちでノイジーに表現している点において、内容的、形式的には同質である。

[図7]『日本』より〈アスファルト〉
[図8]左から8-1、8-2、8-3

 私がここで〈アスファルト〉を参照したのは、これらが『日本』において、あるいは群写真において非常に大きな意味を持つことを示すためである。それは、写真集における作品の「隣接」と「断絶」に関する、作品間の境界線のあり方にまつわる問題である。

 〈アスファルト〉は、他のセクションのイメージと比べて抽象度が高く、そのほとんどが紙面フルサイズの裁ち落しでレイアウトされている点において、特徴的である。ここで注目すべきは、一般書籍構造上のノドと呼ばれる見開き中央の溝の部分が、イメージの連続性と非連続性を行き来させるような、あやふやな境界線をつくり出している点である。例えば、[図8]に示したように、先の見開きは、アスファルトという「地」を共有しているという点において、[図8‐1]の図に置き換えることができるが、私がここで問題としているのは、読者が見開きを左右個別のカットとして受容するのか、あるいはまた見開きに跨るひとつのイメージとして受容するのかということである。このとき、受容の仕方が明確に決定づけられるのは[図8‐2]のように、ノドの溝を跨るようにして形象が横断している場合であり、それらが見開きでひとつのイメージとして受容されることを促す決定的なものであると言える。

 また、[図8‐3]においては、断定的に名称を判別できるような物質が、ノドの溝を境にして途切れていることが確認された場合を示しており、このとき見開きのイメージは、ひとまずは、左右個別の作品として断定することが可能なのである。

 しかしながら、先に参照した見開き[図7]においては、奇しくも、そのどちらも明確に見出すことができない。つまり、「不確かな境界線」を共有したまま、曖昧に、また緊張感をもって共存しているのである。そのとき読者が体験しうるのは、それまで、慣習に従って無意識的に受容してきたタブローとしてのイメージの限界値、枠組みが、永遠に決定づけられないことへの不安と苛立ちであり、「地」のみが共有されたことで、強調されて立ち現れたノドの溝を、曖昧なボーダーラインとして、左右両ページのイメージが互いに侵食と断絶を絶えず繰り返すような構造が生み出されることで、読みの受容に関わる秩序の崩壊が誘発されうるのである。

 〈アスファルト〉を例に確認してきたような、見開きにおいて境界の有無が明確に決定されえない「曖昧な境界線」を孕むイメージの登場は、ひとつの写真集編集上の方法論として認識されるべきである。それは、慣習的に培われてきた読みの方向の蓋然性や与えられた全体のシークエンスを読者に懐疑させるためであり、そこで違和感を覚えた読者は無意識のうちに慣習化された書籍の読み方にいったん自覚的になることで、自らに起きた異常事態を客観視するのだ。つまり、それまでは正常に「読めていた」ものが突然、「読めなく」なるという異常事態であり、読者が自信を持ってその読み方を正当化できなくなったとき、読みに対する不安が誘発され、その不安は写真集全体の構成にまで、あるいは写真集『日本』そのものへの不安へと拡張されてゆくのである。

 またそのような不安を誘発する仕組みは、読みの慣習を利用してストーリーを読ませようとする慣習的、単線的な、あるいは組写真的な読みの方向に対する批判的な読みの実践を、読者自身に実行させるように機能していると言うことができるのだ。また、〈アスファルト〉を契機として読みに対する批判的あるいは反省的な態度を読者に誘発することは、セクションという「区切り」を持った『日本』の構造自体へも懐疑的な視線は向けられうるのであり、そのときセクションという制度は、ほかのセクションとの関係性において、互いに侵食と断絶を絶えず繰り返しながら永遠に決定づけられない曖昧なボーダーライン=〈アスファルト〉における「ノド」になるのである。

 以上のような分析は、東松が実際にそれを意識していたか否かに依拠するものではない。また、筆者がこれまでに参照した写真はすべて「恣意的」に選択されたものだが、その恣意性こそが群写真においてもっとも重要なことなのだ。つまり、任意の写真AとBに結合関係を見出すものもいれば、写真AとXの関係性を見出す読者もいて当然であり、そのような、ある程度に開かれた読みを可能にするものこそが「群写真」なのだ。「ある程度」というのは、〈アスファルト〉の考察で見たような見開きイメージの可侵性が及ぼす読みへの「懐疑の誘発」や、構図あるいはレイアウト上の類似性を持った2枚を並置させることで、〈恐山〉から〈アスファルト〉への接続をスムーズに行わせ、そしてまたあらかじめ定められた制度的なセクションという枠組みを、その内部であえて解体させるレイアウト上の手法、あるいはまた、現象やテクスチャーが、セクションという枠組みを超越してイメージの表層に見出される連関性のみで関係を結ぶ=相互参照させるようなレイアウトが施されているなど、そこには無数のトリックが散りばめられているからである。

 一見「開かれた読み」が可能であるかに見える『日本』には、読み手を巻き込んで、いわば「共犯関係」に位置づけるような編集上の仕組みが見出されるのだ。つまり、一見無秩序に散逸した「群化」された写真群を目の当たりにした読者は、自らに開かれた自由な読みが担保されているかのような感覚を得るが、じつは、そこに仕掛けられた「写真を編む」という編集上のトリック── 東松による社会化── によって「読まされている」のである。

五、共犯関係としての読者

 最後に、「群化」によって構成された写真集を人間社会における「集団」あるいは「集合体」と関連付けてとらえ、読者がそれらといかにして対面するかという、読者の心理的作用も考慮した社会学的あるいは精神分析学的見地を導入して『日本』を考察したい。つまりここで行われるのは、写真集と読み手のあいだで交わされる「解釈」に関わる構造的読解の試みである。

 東松は、自らの長崎を主題としたいくつかの写真集について(*17)、長崎を訪れるたびに増え続ける「長崎」写真の総体から毎回写真を選択して写真集を制作する際に、選択する写真が毎回変化す理由を「写真もまた生きている(*18)」からであると語っていた。また、群写真を命名し定義づけた際にも、写真同士に「おしゃべり」をさせるという擬人的表現を用いていたように、東松にとって写真と写真の関係が構築しうる社会性とは、人間と人間の関係性── ネットワークの総体としての「社会」と類似する仕組みを持ちうるものなのだ。

 それはつまり、組写真のように写真を定められたストーリーの型に押し込め、明快なキャプションを添えることで身動きが取れない状態へと追いやるような、いわば人間に奉仕するための「道具」として写真をとらえるのではなく、積極的に写真の「コードなき」性質を受け入れることで、その性質をポジティブなものとして活かし、人間が想像しうるはるか彼方で起こりうるイメージ同士の結びつきこそが写真の「生」であるかのごとく、それを読者にシミュレートさせるものこそが群写真であることを示している。群写真は、生きた写真を放り出すことで制作者すら意図しえないなんらかの意味を自然発生させるものではなく、いわば野性的な写真群に対して「社会」を提供する、あるいは社会性をもたらすなかで、制限された「自由」=社会化された「自由」を与える試みなのである。組写真における写真はセリフを読み上げるだけであるが、群写真における写真は「無駄口」をきくことを許されている。しかし、その無駄口をきく自由さえもじつは、東松によってつくり出された監獄のなかでしか許されない。

 『日本』に収録された写真群は、「日本」というその主題を前提にして関係性を構築する「集団」である。我々が写真集と向き合うとき、そこに個々のイメージに対するキャプションが添えられていない場合、それらをなんらかの関係性のなかで読解しようとする。そのときにひとつの指標となるのが、読者が生活する社会の規範である。つまり読み手は、『日本』を読解するために、初めて出くわしたひとつの集団を自らが属する社会の規範や慣習をモデルにしてそれらを客観的に眺める作業を強要されるのである。

 それはつまり、『日本』を社会化する視点を東松あるいは群写真によって与えられると言ってよい。また、そのような行為は、ひとつのイメージを解釈するためだけの行為ではなく、複数のイメージを共通するいかなる関係性として読み解くかというものであり、写真群に遭遇した我々は、それらを個別に読解する試みを挫かれ、全体性としての「日本」をイメージの関係性のなかでとらえるという作業を強いられるのである。社会学者ハーバート・ジョージ・ブルーマーは、自己=行為者が他者との接触においてひとつの「解釈」を得る際のメカニズムを次のように示している(*19)。

 起きてから寝るまでの、人間の意識された生活とは、自己指示── つまり自分があつかい、また考慮のうちに入れるものごとに気をとめること── の、たえまない流れなのである。こうして、自分自身に指示をおこなうメカニズムを持ってその世界に対面する生命体としての人間という構図が得られるわけである。他者の行為を解釈するのに用いられるのもこのメカニズムである。というのも、他者の行為の解釈とは、その行為がこれこれの意味や性格を持つものであるとの指示を、自分に対しておこなうことだからだ。

 むろん、これらは人間同士における関係を扱ったものであるが、何かについて解釈しようとするとき、あるいは解釈を促されたとき── 例えば、夕日や空を見上げて何かを思うときに、当然のことながら我々の思考には、人間の言語や経験、あるいは社会的規範が知として否応なく導引される。それはつまり、ブルーマーの指摘するような「自己指示」による対象の解釈が行われるからである。ここで私が示したいのは、我々が説明不十分で宙吊りにされた写真と接触した際に、また、そこから解釈を得ようとしたときに、手がかりとなるのは少量のキャプションと、規範や経験に裏打ちされた「自己」であるということだ。つまり行為者/読み手は、モノやイメージに対する一種の擬人化── しかも自己を反映させた──のシミュレートによって解釈を導き出しうるということである。

 フランスの精神分析学者ディディエ・アンジューは『集団と無意識』において、「集団」の性質を次のようなものとして規定する(*20)。

 集団とは、諸個人を一つにまとめて維持する外皮である。この外皮がつくられないなら、人間の雑多な寄せ集めはあっても集団は存在しない。では、この外皮はどんな性質をもつのだろうか?(中略)集団にとって重要なのは、明文化された法、暗黙の規則、確立された習慣、儀礼、規範的価値をもつ行為や事実などがつくる網の目であり、また、集団内の場が[成員各自に]割り当てられていることであり、さらに、成員同士の間でしか通じない独自の言語表現があるということだ

 「集団」とはつまり、外部との断絶── 外皮の形成によって成り立つものである。いささか強引ではあるものの、これらを『日本』の構造と照らし合わせて考えてみたい。『日本』における「外皮」とはなにか。それが「諸個人を一つにまとめて維持する」ものであるならば、外皮は広義では「写真集」、狭義では『日本』ということになる。また、セクションのそれぞれを小集団と見なすことができ、外皮であるところの『日本』は、セクションという小集団──〈吹きだまり〉〈恐山〉〈アスファルト〉〈風景〉〈まち〉〈ghosttown〉〈チンドン〉〈家〉〈占領〉──の集合体として存在しているといえる。つまり、『日本』はその内部において、個々のイメージを〈吹きだまり〉〈アスファルト〉などの見出しタイトルに収束させるセクションという制約を機能させる区分が小集団としてあり、それらの小集団が「日本」という主題を唯一の制約として結合し合うことで『日本』の「集団」としての全体性が成り立つのである。

 さらにここで、もうひとつ別の観点から集団の特性について考えてみたい。物理学者レン・フィッシャーは、無数に集まった生物の群れや人間の群衆などが時に見せるような見事に調和のとれた動きについて、相互作用や連鎖から生じる「群知能」を用いて集団が一個の「超動物体」と化するメカニズムに関する研究から、人間の群衆に対してもそれらが適用されるような普遍的作用の解明を目指している。例えば、フィッシャーは、イナゴが群れを成し、ついには同調的な集合行動に至るまでの過程の観察を次のように記している(*21)。

 個々のイナゴが最初に移動を始めるときは、まだ若く、羽もない状態であり、動きもだいたいランダムだが、集団の密度が増してくると次第に運動の方向がそろってくる。やがて集団の密度が非常に高くなると、劇的な転移が急速に生じる── 集団内の個体にまだ残っていたランダムな運動が、高度に統率のとれた進軍へと変化するのだ。

 このようなイナゴの集合行動は、仲間が欲しいという衝動が、緊張バランスを調整する「セロトニン」という伝達物質によって誘発されることで成されるという。

 フィッシャーはさらに、集合行動の仕組みについての理解を深めるためにはコンピュータ・シミュレーションに目を転じる必要があるとして、アニメーション・プログラマーのクレイグ・レイノルズが1986年に制作した「ボイド(Boids)」を参照している。ボイドとは、鳥の群れに見立てられた二等辺三角形の集合体が、実際の鳥の群れのごとく運動する人工生命シミュレーション・プログラムである。ボイドを開発したレイノルズの目的は、「ひとつの生き物のようにふるまう集合行動が、個体間の単純な相互作用から発生しうることを明らかにすること」であった。

 「個体間の単純な相互作用」とは、次の3つの行動規則によって説明される。ほかの個体への衝突を避ける「回避(分離)」、近隣の個体群が向かう方向の平均へ向かう「整列」、近隣の個体群の位置を平均し、そこへ向かう「引き寄せ(結合)」である(*22)。これら3つの規則は、集合行動を維持するための反射的、本能的な動向である。また、先に考察したようなセクションを超えたイメージの結合は、まさに、群知能的想像力によってもたらされるものであると言え、その想像力を読者に誘発し、シミュレートさせることこそが、群写真の本質である。

 イナゴの集合行動と同様の現象は、人間の群衆においても見出される。群衆の密度が高まって臨界値に到達すると、イナゴの群れと同様に誰もが同じ速度で歩くようになるという。それは、「確実に前に進み続ける」ことで「人波のなかで背後から押されないようにする」という合理性に基づいた共通の心理的作用の結果なのである(*23)。あるいはまた、混雑した街路を歩いているうちに自然発生的に双方向を行く導線が形成されるのも社会的な自己組織化の結果である。フィッシャーは、群衆のなかで動く際の目標── 例えば、先に進むという目標── を達成するために意図して生み出された力を「社会的力」という言葉を用いて説明しているが、このような我々に共通の自己組織化の方法論は無意識のうちに内面化されたものである。

 このような我々に内面化された社会的規範をもとにして『日本』の読者はそこに関係性を見出すことを強いられる。それは、あまりに漠然とした「日本」という主題と、それが漠然としているからこそ明快なつながりを見出しがたい個々のイメージやセクションとの関係性を、苦痛を伴わないかたちで「解釈」するために読み手自らが「交通整理」を行わねばならないからである。我々が知っている、社会で苦痛を伴わない方法こそが、これまでに参照してきたような群衆をスムーズに突き抜けるための合理性に基づいた「社会的力」の行使なのだ。

おわりに

 『日本』において「群写真」は、とりわけ「戦後日本」という概念を、いわば「亡霊」のごとく、あるいは「煙」のようなつかみどころのないシルエットとして立ち上がらせていると言えよう。しかも群写真は、たんに「組写真」を拒否するための概念として存在したわけではなく、組写真の方法論を、実践を伴った批評性に基づいて解体するかたちで登場した「新しい写真」であった。

 『日本』の主題は、まさにアメリカ──とりわけ米軍基地によってもたらされた強烈な「戦後日本」へと向けられている。『日本』では、イメージの意味内容が強固に決定づけられることを避けるためにキャプションは少量に留められており、これによって個々の写真はある程度に自由な関係性の構築が可能にされている。また、構図やレイアウト、さらにはテクスチャーの連関性に基づくイメージの結合が、時空間軸の異なるセクションという区切りを乗り越えてさらなる結合を果たすのだ。しかしながら、これらは決して完全に自由で恣意的な結合ではない。それらは、東松によるレイアウトによって誘導された読者が自らに内面化された社会的規範を応用的にシミュレートすることによって成される結合関係であった。

 東松による誘導は、決して組写真のようなリニアで強制的な誘導などではなく、一見して無秩序な写真の「群れ」に社会性をもたらすべく、読み手の積極的な写真集への介入を誘導するものである。そのなかで読者は、一見して連関性の見出しがたいイメージ同士やセクション同士の関係性を見出し、それらをまた、背後に落とし込まれた「戦後日本」という通奏低音を頼りにしながら関係性を構築することで、群れに秩序を見出し、社会化することで群衆を進んでゆくのである。

 連続するセクションは最終的に東松によるテキストが添えられた〈占領〉セクションにたどり着く。当セクションが全体の3分の1の分量を占めていることを考えれば、それが東松の根幹を示す主題として写真集の読解に多大な影響を及ぼすことは明白である。そのとき読み手の内部には、それまでのセクション同士の結合による関係性の構築作業の帰結として、それまでの全体像が、重層的な「戦後」の日本のシルエット── アメリカによって、あるいは敗戦によってもたらされたもの── として立ち現れるのである。

 その時、読者が感じうるのは、東松が戦後において経験したような紛れもない「戦後日本の強烈な現前の一部始終にほかならないのだ。つまり、表象不可能なものの表象としての「群写真」は、戦後日本そのものの表象に向かったのではない。遡及的にもたらされる「戦後性」が、社会化された写真の群れに与えられた僅かな自由が生み出す流動性によって「じわじわ」と立ち上がる過程を表象したのである。
 

*1―― 東松照明「組写真から群写真へ」、『朝日カメラ教室 第三巻 スナップ写真』朝日新聞社、1970。
*2―― 名取洋之助『写真の読みかた』岩波書店、1963年、144-146頁。
*3―― 名取が太田英茂らとともに立ち上げた日本工房(第二次)から出版された対外向けグラフ雑誌。対外文化宣揚を目的に創設された国際文化振興会(KBS)にアプローチをかけ、そこから援助を受けるかたちで、1934年に対外文化宣伝グラフ誌『NIPPON』の創刊に至る。
*4―― 渡辺勉「新しい写真表現の傾向」、『アサヒカメラ』朝日新聞社、1960年9月号。
*5―― 名取洋之助、前掲書、1960年10月号。
*6――『岩波写真文庫』は、名取洋之助と岩波書店専務の小林勇によって立ち上げられ、1950~58年まで続いたテーマ別写真集叢書である。「物語る写真」、「眼でみる百科」などをスローガンにかかげ8年間で286冊が刊行された。54年から岩波写真文庫の制作スタッフとなった東松は『水害と日本人』(1954)、『戦争と平和』(1955)、『やきものの町‐瀬戸』(1955)などを手がけている。
*7――『アサヒカメラ』1960年1月号から3月号まで連載《基地》として始まった3作品。タイトルはそれぞれ1月号「HARLEM(黒人街)‐神奈川県横須賀‐」、2月号「視線‐北海道千歳基地‐」、3月号「周辺の子供たち‐青森県三沢基地‐」。*8―― 名取洋之助「新しい写真の誕生」、『アサヒカメラ』朝日新聞社、1960年10月号。
*9―― 東松照明「僕は名取氏に反論する」、『アサヒカメラ』朝日新聞社、1960年11月号、156頁。
*10―― 林田新「星座と星雲‐「名取=東松論争」に見る「報道写真」の諸相」、『映像学』第84号、日本映像学会、2010、32頁。
*11―― 福島辰夫「私のベスト5」、『アサヒカメラ』朝日新聞社、1960年2月号、147頁。
*12―― 伊藤知巳「私のベスト5」、『アサヒカメラ』朝日新聞社、1960年2月号、148頁。
*13―― 東松照明、「リアリティとは何か」、『現代思想―ゴダールの神話』青土社、1995年10月臨時増刊号、331頁。
*14―― 同書、331頁。
*15―― 例えば、岡田隆彦はアスファルトの表面に散らばる金属片を撮影した〈アスファルト〉セクションに、小説家ジャック・ケルアック(1922~69)の『路上』を引用しており、ケルアックが放浪からニューヨークに戻ったときに初めて「都会性」が客観的に感じられたという体験記を引き合いに、自らもアスファルトの歴史の向こう側を見つめることで、与えられるだけの環境――無意識的、受動的にのみ経験される環境を客観的に見つめ直すという試みを詩的に記している。
*16―― 序論で示した東松による「群写真」定義より引用。
*17――『〈11時02分〉NAGASAKI』(1966)、「風化する時」(1980)『長崎〈11:02〉1945年8月9日』(1995)
*18――東松照明「写真の方法について」、『長崎〈11:02〉1945年8月9日』(新潮社、1995)より。
* 19――ハーバート・ブルーマー『シンボリック相互作用論』後藤将之訳、勁草書房、1991、103~104頁。
*20―― ディディエ・アンジュー『集団と無意識――集団の想像界』榎本譲訳、言叢社、1999、5頁。
*21―― レン・フィッシャー『群れはなぜ同じ方向を目指すのか?』松浦俊輔訳、白揚社、2012、40頁。
*22―― 同上、44~45頁。
*23―― 同上、41頁。

参考文献
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*本稿は応募時から校正を経たものです。