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2015.9.20

大山エンリコイサムが読み解く、バンクシー「ディズマランド」の批評性

2000年代後半よりアート界を賑わす匿名のストリート・アーティスト、バンクシーが手がける「ディズマランド」。某有名テーマ・パークを風刺しているこの「陰鬱ランド」の実態と批評性を、現地に足を運んだアーティスト・大山エンリコイサムが分析する

文=大山エンリコイサム

ディズマランド園内の光景。列になっている人々は、「バス内美術館」「図書館」「ゲリラ・アート・ギャラリー」「同志のための相談案内所」 そして「屋外広告をハックするためのワークショップ」の5つで構成される「ゲリラ・アイランド」のコーナーに入るために並んでいる Photo © Ōyama Enrico Isamu Letter
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悪夢のアミューズメント・パーク──「ディズマランド」寸評

 2010年(日本公開は2011年)の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』以降、日本でも高い知名度を誇るバンクシー。一部メディアでは「覆面ゲリラ・アーティスト」などと記号的に語られるが、その登場の背景にはグラフィティ文化からストリート・アートにいたる歴史的な流れがある。

 実際『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』を含むこれまでの作品群は、そうした背景を踏まえてこそ深く理解できるものであった。ところが、全世界で大きな話題を呼んでいるバンクシーの最新プロジェクト「ディズマランド」は、グラフィティ文化やストリート・アートの文脈と無関係に成立しており、この奇才がいよいよ特定の枠組みを越え「バンクシー節」とも言える独自の世界を確立していることを感じさせる。

 全体の概要や目玉であるシンデレラ城の紹介をはじめ、簡単なレポートは日本語でもすでに書かれているので、ここでは私が訪れて個人的に感心した点をごく簡単に記したい。

園中央のシンデレラ城にあるひっくり返ったカボチャの馬車と死亡したシンデレラ、そしてそれを取り囲むパパラッチの姿は、ダイアナ妃の事故死を連想させる Photo © Ōyama Enrico Isamu Letter

 美術展と遊園地をドッキングした本プロジェクトは、言うまでもなく某大手遊園地のダーク・パロディであり、「dismal(憂鬱な)」という言葉からもわかるとおり、「夢」ではなく「悪夢」に彩られたア(ミュ)ー(ズメン)ト・パークである。

 展示されている各作品は興味深いものから凡庸なものまでさまざまだが、評価すべきはやはりプロジェクト全体の仕掛け方だろう。

 一般の遊園地が快と悦の資本主義原則に満たされた祝祭の場であり、そこから隠蔽される現実の貧困や社会問題と無縁な虚構空間であるとすれば、資本主義を批判し続けてきたバンクシーが、まさにそうしたキャピタルの原理に敗れ、廃墟=負の残余として置き去られた過疎化する地方の遊園地跡を復興し、アイロニカルで辛辣なエンターテイメントに仕立て直したのは必然的ですらある。

 注目すべきは、こうした批判精神を社会に伝えるための効果的な仕組みとして、美術展と遊園地というモチーフが実に巧みに重ね合わされている点だ。換言すれば、真剣に鑑賞するものとお手軽に楽しむもの、シリアスなものと馬鹿げたものが、無理なくスムースに隣り合わせにされ、パッチワーク状の空間構成として園全体に広がっている。

これにより来場者は、アート関係者であれ、アンチ資本主義の運動家であれ、ディズマランドを見たいとせがむ子供をしぶしぶ連れてきたファミリーであれ、十分に休日の気晴らしをエンジョイしながら、同時に、いかに私たちの暮らす資本主義社会が見るに耐えない暴力や狂気に駆動されているかを「それなりに深刻に」目の当たりにすることになる。

 とくに「ザ・ギャラリーズ(展示室)」と題された園左手に位置する建物は3つの空間からなっており、こうしたパッチワークをもっとも見事に体現している。

 1部屋目では、2013年10月にバンクシーがニューヨークで行なったプロジェクト「ベター・アウト・ザン・イン」にもお目見えした《グリム・リーパー・バンパー・カー》(死神が乗り回す遊園地のアトラクション・カー)や、ジェームス・ジョイスによるパーツが崩れたスマイリー・フェイスのデジタル映像《ヒア・フォー・ア・グッド・タイム・ノット・ア・ロング・タイム》などが薄暗いなかに登場し、遊園地的スペクタキュラーな演出とブラック・ユーモアが視覚を楽しませる。

 2部屋目では打って変わって明るい照明のもと、いわゆる通常の美術展の形式に則って、壁に絵がかけられ、空間に彫刻が置かれ、視線はキャプションと作品のあいだを交互に動く。部屋のはじめに置かれているのはダミアン・ハーストの作品だ。

 各作品は多かれ少なかれ消費社会の風刺を基調としており、最初の部屋に比べ、鑑賞者はもう少し真面目にその内容に向き合うことになる。くすっと笑いをこぼしながらも、いったいこれらの作品は何を戯画化し、批判しようとしているのか、それなりに考えを巡らせる。 最後の部屋には、ジミー・コーティによる「ディストピアと化した暴動後の都市」をテーマにした巨大模型作品が置かれ、暗闇のなかで模型内に仕込まれた大量の小型フラッシュが、激しく明滅する。ここでは、作品の技巧的な完成度、大きな部屋に1点のみ展示されることによる集中力の喚起、フラッシュの視覚的刺激などが、それまでの部屋にはなかった「重さ」を印象づける。

 そして列になって模型周囲を歩く鑑賞者に、制服を着たスタッフが「止まらずにどんどん歩くんだ!」と罵声を飛ばすことで──それが冗談だとわかっていても──まるで全体主義の監視空間に身を置いて、自由を奪われたような圧迫感が醸成される。 以上のように、「ザ・ギャラリーズ」の3部屋の性格はそれぞれ異なっている。だがそれらは、「ジョークの軽さ」と「テーマの重さ」の部屋ごとの比率を、空間構成と導線の滑らかな設計によって違和感なく転倒させることで、手際よくそれらを同居させている。 そして「ザ・ギャラリーズ」のこの構造に、美術展と遊園地を掛け合わせるというディズマランド全体のエッセンスが、もっとも濃縮されているように私には思えた。 繰り返せば本プロジェクトは、この仕掛けによってこそ多種多様な来場者に足を運ばせることに成功しており、それは内容において資本主義社会の批判であるが、同時に形式において従来型の美術展の制度批判としても読める。言うまでもなくそのビジョンは、閉鎖的なアート・ワールドを皮肉りながら、独自のストラテジーで世界中のより広範なオーディエンスに訴えかけてきたバンクシーの、これまでの活動に通底しているだろう。