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2020.10.3

ゲルハルト・リヒターをモデルにした理由とは? 映画『ある画家の数奇な運命』監督、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクに聞く

世界的なアーティスト、ゲルハルト・リヒターをモデルにした映画『ある画家の数奇な運命』が10月2日にロードショーされた。監督は『善き人のためのソナタ』で知られるフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク。本作制作の背景などについて話を聞いた。

聞き手=橋爪勇介(ウェブ版「美術手帖」編集長)

『ある画家の数奇な運命』より (C)2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG
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主人公は、ナチ政権下のドイツで叔⺟の影響から、芸術に親しむ⽇々を送るクルト。ところが、精神のバランスを崩した叔⺟は強制⼊院の果て、安楽死政策によって命を奪われる。終戦後、クルトは東ドイツの美術学校に進学し、そこで出会ったエリーと恋に落ちる。元ナチ⾼官の彼⼥の⽗親こそが叔⺟を死へと追い込んだ張本⼈なのだが、誰もその残酷な運命に気付かぬまま⼆⼈は結婚する。やがて、東のアート界に疑問を抱いたクルトは、ベルリンの壁が築かれる直前に、エリーと⻄ドイツへと逃亡する。晴れて美術学校で創作に没頭するが、教授から作品を全否定され、もがき苦しむ。だが、魂に刻む叔⺟の⾔葉「真実はすべて美しい」を信じ続けたクルトは、ついに⾃分だけの表現⽅法を発⾒し新作を完成させる。それは、罪深い過去を隠し続けた義⽗を震え上がらせる作品でもあった─

──本作の主人公・クルトのモデルになっているのは現代美術でもっとも有名なアーティストのひとりであるゲルハルト・リヒターです。彼をモチーフとして選んだ理由をお聞かせください。

 リヒターは人生にあらゆるトラウマがあった人物です。彼はそれらのトラウマを使って、偉大なアートに仕立てました。それはドイツ人、ひいては世界中の人々にとってとても有意義なものです。そして彼の人生のストーリーは、私が長年語りたいと思っていたことをうまく例示してくれています。私は「アートというものは苦しみに目的を与える」(自分が苦しんできたことがアートになり、それがその苦しみに目的を与える)ということを映画にしたいと思っていたのですが、彼の人生がそれに具体的なストーリーを与えてくれました。

──元々リヒター自身やその作品のことはよく知っていたのですか?

 いえ、あまりよくは知らなかったのです。まず私はリヒターに限らず、会った様々なアーティストの要素を集約して、作品のプロットを書き上げ、キャラクターをつくり上げました。例えば、私はロサンゼルスに住んでいるので、デイヴィッド・ホックニーとか(残念なことに彼はフランスに移住してしまったので、今は会うというよりはメールでやり取りしているんですが)、私の息子の名付け親でもあるトーマス・デマンド、それにジェフ・ウォール、タシタ・ディーンとかね。そういった人たちと会って、いったいなぜ彼らがアートをつくるのか、その動因は何なのか、何が共通しているのか、ということを理解しようとしたのです。そのときに、リヒターの叔母さんがじつはナチスによって殺され、殺害の原因となった政策の責任者だった人の娘と結婚した、ということを聞いて、これは私が描きたいと思っていたストーリーのいいきっかけになると思ったんです。

『ある画家の数奇な運命』より (C)2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

──実際にリヒターを取材した際、どのように彼のライフストーリーを聞き出していったのでしょうか? 勝手なイメージですが、彼はあまり多くを語らない気がします。

 リヒターに限らず、アーティストというのはパブリック・イメージをつくり出すのが大好きなんですね。彼は「シャイで無口」というイメージが好きらしいのですが、実際にはよく喋るし、全然無口ではないんです。求めればなんでも答えてくれる人でした。

 とはいえ、何週間も時間をいただいたので、それは珍しいことだと思います。彼の自宅やアトリエ、さらに、自分が幼少期を過ごしたドレスデンまで連れて行ってくれました。私がドキュメンタリーではなくフィクションをつくるということも理由にあったのかなと思いますし、彼がある種のスランプに陥っていて、何かほかに気を紛らわせるものを求めていたのかもしれません。そういう意味では非常にラッキーだったと思います。

左がフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク

──作中には、ヨーゼフ・ボイスをはじめ実在のアーティストを思わせる登場人物が多数出てきますね。アートファンにとってはニヤリとする要素ですが、これらは必然だったのでしょうか?

 不幸にもアート・ワールドというのはとても小さくて、たぶん私とあなたで全員知っているくらいだと思います。本物の要素をたくさん入れたのは、そうすることによってフィクションとノンフィクションの周波数が同じになるというか、正しい周波数をキープするためなのです。フィクションがあらぬ方向に飛んでいかず、あるトーンをキープできるように、自分に対する規律としてリアルな要素をたくさん入れていました。

──あまりにも現実離れしすぎないために必要だったということですか?

 そうですね、そのように見るのが公正な見方だと思います。例えば、リヒターは実際ボイスに教わったわけではないですが、リヒターが社会主義的なプロパガンダ・アートから解放されたのは、ボイスがいなければできなかったことだと思うんですよね。すべてのデュッセルドルフのムーブメントは、やはりボイスの影響なくては始まらなかったと考えると、私がつくり上げたフィクションは、ある意味事実よりも真実である、と言えるのかもしれません。

『ある画家の数奇な運命』より (C)2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

──作中に出てくる作品についても聞きたいです。冒頭の「頽廃芸術展」に展示されているカンディンスキーやモンドリアンに始まり、リヒターのフォト・ペインティングまで、実物に近づけたものがたくさんありました。ボイスを思わせる人物のように、これらもフィクションを現実につなぎとめる機能を持っているのでしょうか?

 すべてのアートというのは政治的・社会的・歴史的な環境のなかで生まれているので、伝統の継続であるわけです。アートが向かっていく方向というのはそれまでの歴史や文化があってのことなので、そこには正当性を持たせたかったということです。

──作品の再現には苦労されましたか?

 そうですね、劇中の作品を再現するのがもっとも複雑で、プロジェクトのなかでも一番予算がかかる部分でした。たぶんそれが本物に近いとわかるのは、あなたのような人(少数の美術に携わる人)だと思います。

 映画の最初にある頽廃芸術展は、本当に数分なんですよね。見ている人は「ふーん、こんな展覧会があったんだ」という感じだと思うのですが、とても複雑なプロセスを経ていて、とてもお金がかかりました。このために、たぶん映画史上初めてではないかというくらい、たくさんの画家や贋作者を雇いましたよ。ほとんどの絵はナチスによって破壊されてしまっているので、モノクロ写真などのアーカイブを見て、どんな材料を使ったのか、どんな色合いだったのかというのを調査してつくっていったので、非常に大変でした。元々ナチスが「これは良くない絵だ」という風に展示したものを、とても苦労してつくり直したということです。

『ある画家の数奇な運命』より (C)2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

 フォト・ペインティングに関しては、トーマス・デマンドが色々なことを知っていて話をしてくれたのですが、「あの絵を描けるのはひとりしかいない」と言っていました。リヒターには伝説的な弟子としてアンドレアス・シェーンという人がいました。80年代にリヒター人気が高まっていたときに、リヒターはアンディー・ウォーホルの「ファクトリー」に影響を受け、同じようなことを自分でも試みたのです。そこでアンドレアス・シェーンを雇って絵を描かせたんですね。有名なキャンドル・ペインティングをはじめ、高額で売られた作品の多くはアンドレアス・シェーンによって描かれていたのです。彼は当時すごく安く──1時間12マルクほどで──雇われていたそうです。しかし彼が描いたものは、数億円という値で売り買いされていました。

 ある時点でシェーンはリヒターから独立します。しかし、技術面ではリヒターより優れているのに、彼の絵はあまり売れないんですね。そこでこの映画では彼を招いて、フォト・ペインティングを描いてもらいました。だからこれはある意味“オリジナル”なんです。リヒターの絵を描いていた人による作品なので。この映画には「本物」が出ていると言ってもいい(笑)。

『ある画家の数奇な運命』より (C)2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

──なかなかクリティカルな演出ですね(笑)。アートマーケットには批判的ですか?

 当時はファクトリーみたいなものが流行っていたので、リヒターはそのことを隠していなかったんですね。アトリエに人が来ると、「これはいまアンドレアスが描いてるから」みたいな感じで。リヒターがいまどう思っているかはわかりませんが、当時のアートマーケットからすると、隠すことではなかったということなんです。

 アートマーケットについては、絵画が非常に高価な値段で売られているというのは、素晴らしいことだと思っています。コレクターになれるようなお金持ちは、一生をかけて権力を築き、人を支配したり、嘘をついたりしながらお金を稼いだわけです。そしてそのお金で100億円くらいの絵を壁にかける。それはその絵に「真実」を感じたからでしょう。その真実というのは、彼らがやってきたのとまったく逆のことなんですよね。宗教改革が起こる前には、免罪符はたくさん売られていて、「大聖堂をつくるのにいくらかお金を払うと地獄行きを逃れられる」というようなかたちだったわけです。その現代版免罪符が、アートを買うことなのではないかと思います。

──主人公のクルトは、大戦中から戦後の東西ドイツ時代まで、激動の世の中を生きていくわけですが、それにも関わらず、彼自身は淡々と理想の芸術を追い求めているように見えます。この彼の姿勢が伝えるものは何なのでしょうか?

 非常に面白い質問ですね。アートというのは狂気的な情熱でなくてもいい、ということです。美しい女性数人とセックスをしながら描くとか、自分の耳を切ってしまうとか、そういうものだけが芸術の創造ではないと私は思います。もっと冷めた、狂気ではなくもっと正気のプロセスですね、淡々とものを見つめて観察していて、そして十分に吸収して、ある時点でそれを外に出すというような、もう少し静かなプロセスを見せたかったのです。

──監督自身もひとりの表現者です。監督にとって「現代美術」とはどういう存在なのでしょうか?

 私にとっては、現代美術も近代美術も古典美術も、根本的な違いはありません。すべてそれらは継続しているし、ある意味でロジカルな、論理的な進歩であり結果であると思っています。私がやろうとしていることは、文明以前の洞窟に描かれた絵画からジェフ・クーンズのバルーン・ラビットに至るまで、そこに共通しているものは何かを見出すことです。それは、「その作品を見れば、その後の世界が違って見える」ということなんです。それが私にとっての芸術の基準であり、それを満たしていないものはアートではない、という風に思っています。

──ではリヒターの作品というのは、その最たるものなのでしょうか。

 まさにそうですね。