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2017.3.4

「日本画」という移動ルート。
村上春樹『騎士団長殺し』を美術で読み解く

2月24日、村上春樹の新刊長編小説『騎士団長殺し』(新潮社)が発売された。長編作品としては、2010年に刊行された『1Q84 BOOK3』から実に7年ぶりとなった本作は、肖像画家の「私」を主人公に、美術が大きな要素として全編を貫いている。その『騎士団長殺し』をインディペンデント・キュレーター、長谷川新が独自の視点で読み解く。(本稿には物語の詳細に触れる箇所が含まれています)

文=長谷川新

村上春樹『騎士団長殺し』

「日本画」をめぐる物語

 村上春樹の新作『騎士団長殺し』は、《騎士団長殺し》という題名の「日本画」をめぐる物語である。本作には、これまで村上が執拗に登場させ続けたプロット、モチーフが改めて繰り返し登場しているが(妻との離婚、霊性を帯びた少女、井戸、戦争、生き霊、謎の超常的存在など)、この「日本画」はそのなかでも異彩を放っている。だが、村上作品に親しんだ人であれば、それは『海辺のカフカ』(2002年)で「海辺のカフカ」という曲が重要な要素であるという構造の変奏に過ぎないという指摘をされるかもしれない。その指摘自体は正しい。そこで本論は次のような問いについて考えたい。なぜ《騎士団長殺し》はわざわざ「日本画」として描かれなければならなかったのか。この問いには、「悪しきもの」の「移動ルート」について記述するという、村上の一貫した姿勢と、その過程で彼が出会った困難が隠れているはずだ。

「悪しきもの」とその移動

 村上作品における「悪しきもの」とは、取り返しのつかないレベルで人間の精神を削り取る存在であり、様々な媒介を通して世の中の流れを破滅へと導くような存在である。悪しきものによって、気がついたときには、物事はどうしようもできないほどに悪い方向へと転がり落ちてしまう。主人公はなぜかそれにいち早く気づく立場にいる。あるいは、この悪しきものの第一の被害者として登場する。『騎士団長殺し』が冒頭からいきなり妻に離婚を突きつけられるという村上作品お決まりの展開で始まるのは、この「設定」を村上が堅守したいからにほかならない。

 村上春樹の小説における主人公は、たいてい鈍感で、皮肉屋で、自分の世界に閉じこもることを好む(村上自身の言葉では「デタッチメント」と形容される)。そして、その性格を過度に象徴すべく、著しく性交渉への抵抗が低い。「他者に無関心でありながら性欲を満たすことができる」という稀有な才能を持つ主人公は、その性格ゆえに、様々な事態の悪化に、あるいは妻や性交渉相手の心の変化に気がつくことができない。村上作品に嫌悪感を示す人の多くはこの主人公の「クズっぷり」を理由にするのではないかと思うが、村上が「クズな男」を繰り返し登場させるのは、彼の想像力の貧困というよりもむしろ、こういう「無関心クズ野郎」こそが「悪しきもの」の移動に決定的な役割を果たしているという強い確信に起因すると思われる。

様々な存在にとっての「移動ルート」

 また、村上作品を苦手とする人たちの別の理由には「ストーリーのわかりづらさ」があるだろう。『騎士団長殺し』でも、いったい主人公は何と戦っているのかは判然としない。これは、村上が悪しきものの「起源」や「根絶方法」を決して問わないことが大きい。あくまでもその「移動ルート」こそが問題とされるのである。なぜ移動ルートだけが問題とされるのか。その理由は主にふたつ挙げられる。ひとつは、悪しきものが特定の人物に限定されると村上が考えていないという点(その人物を殺せばすべては解決する、などというストーリーは現実には存在しない)。もうひとつは、悪しきものの「移動ルート」が時間も空間も飛び越えると村上が考えている点だ(だからこそ私たちは過去と無縁ではいられない)。

 詳しくみていこう。『騎士団長殺し』は、3.11前の小田原が舞台であるにもかかわらず、「アンシュルス」(ナチスによるオーストリア併合)や「南京大虐殺」という歴史的事件が何度も差し込まれる。《騎士団長殺し》は、これらの歴史的事件に翻弄された画家・雨田具彦によってあえて「日本画」で描かれる。雨田具彦は「悪しきもの」の芽を摘み損ねたことを自覚し、その象徴的な代替行為として《騎士団長殺し》を描いている。つまり、《騎士団長殺し》とは、本当は「アンシュルス」で行われるべきだったと雨田が思っている出来事の絵なのである。

 本作の主人公は「肖像画家」であるが、彼は偶然《騎士団長殺し》を見つけてしまう。それから事態は急速に動き出し、彼はグレート・ギャツビーを明らかにそのモデルとした謎の富豪「免色さん」と出会い、「井戸」を見つけ、亡き妹と行った「富士の風穴」や、仙台で二日連続して出会った「白いスバル・フォレスターの男」を思い出していく。主人公は夢の中で別れた妻をレイプするが、妻は実際に妊娠し、出産する。免色さんの実子かもしれない「まりえ」は彼女しか知らない道をたどって主人公や免色さんの自宅にやってくる......。

 これらはすべて本作において様々な存在にとっての「移動ルート」を描いている。『騎士団長殺し』では、悪しきものだけでなく、主人公や免色さんも(位相を超えて)「移動する」し、主人公に味方してくれる「イデア」や「メタファー」といった存在も「移動する」。主人公は作中で直接出会った「悪しきもの(白いスバル・フォレスターの男)」の肖像画を完成させることができないが、それは絵を完成させればそれが「移動ルート」となり「悪しきもの」が現れることが彼にはわかっているからだ。「移動ルート」や移動するものが複雑に絡まり合っているのが本作の肝であり、その複雑な絡まり合いこそが(おそらくだが『ねじまき鳥クロニクル』(1994年)の時点で)村上が気づいた困難の源泉でもある。

 それはつまり、「良きものの移動によって生まれた移動ルートを、悪しきものが通り抜ける」というアポリアである。このどうしようもない、徹頭徹尾現実的な困難をどのように引き受けるのかが、村上にとっての重要なテーマであるように筆者には思われる。

「日本画」の召還

 長くなったが、冒頭の問いに戻ろう。なぜ《騎士団長殺し》はわざわざ「日本画」として描かれなければならなかったのか。ここで明治政府が国民国家としての統一化を推し進める際に、「日本の一貫した歴史」が必要となったことを思いおこそう。そこで制作された彫刻においては、例えばヤマトタケルノミコトが日本刀を腰に差していても問題ではなかったし、むしろそのアナクロニズム(時代の行き来)は強く求められた。このプロセスの中で、日本画は「誕生」している。村上は他ならぬ主人公自身に次のように日本画を説明させている。

日本画というのは本来、定義があってないようなものなのです。それはあくまで漠然とした合意に基づく概念でしかない、と言っていいかもしれません。最初にきちんとした線引きがあったわけではなく、いわば外圧と内圧の接面として結果的に生まれたものです(『第1部 顕れるイデア編』 P161)

 『騎士団長殺し』では、日本画という受動的で曖昧な存在は、主人公の「クズっぷり(デタッチメント)」と重ねられながらも、最終的に積極的なものへと変貌している。ナショナリズムに傾倒するのではなく、ある決意のもとで日本画という形式を引き受ける雨田具彦の姿勢の具現化として、絵画《騎士団長殺し》は登場している。たんに画面のこちら側(の世界)と向こう側(の世界)という境界線上の区分だけではなく、様々な力(外圧と内圧)の押し合いのまさに只中として生じる「移動ルート」。

 主人公は物語の最後で、いつか改めて「悪しきもの(白いスバル・フォレスターの男)」の肖像画を書こうと決意するが、そこで将来描かれる絵画は、主人公の心の強さ(内圧)が悪しきものの力(外圧)と拮抗することができるようになることで生まれる「移動ルート」である。「良きものの移動によって生まれた移動ルートを、悪しきものが通り抜ける」というアポリアを、村上は「自ら移動ルートをつくり、悪しきものを迎えうつ」(コミットメント)という姿勢によって解決しようと試みているのだ。「日本画」はそのようなものとして召喚されている。

 だが急いで付け加えねばならない。本作において村上は、「3.11」以後の世界を描くことを積極的に放棄している。最終章で唐突に描かれる「3.11」によって、主人公が「白いスバル・フォレスターの男」と出会った宮城県は壊滅的なダメージを受け、「私がかつて通り過ぎたあの町に繋がるものは、そこには何ひとつ見当たらなかった」と描写される。そしてさらに、主人公が「騎士団長殺し」と「未完成の白いスバル・フォレスターの男の肖像画」を置いていた家も焼失してしまう。悪しきものの「移動ルート」は突如として閉ざされる。残された移動ルートは、主人公が新たに「白いスバル・フォレスターの男の肖像画」を描くことであるが、しかし村上はそこでの戦いについては、次世代にページを託しているのだ。