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2021.2.2

自民党有志が新設目指す「国旗損壊罪」は表現の自由を脅かすか? 憲法学者が解説

日本を侮辱する目的で日本国旗を傷つける行為を罰する「国旗損壊罪」を盛り込んだ刑法改正が、自民党の議員有志によって再提出される可能性が出てきた。この法改正が「表現の自由」に与える影響とは何か? 武蔵野美術大学で憲法を教える志田陽子が解説する。

文=志田陽子(武蔵野美術大学教授)

(C)Photo AC

再提出された「国旗損壊罪」──憲法における名誉と愛

「国旗損壊罪」法案

 日本を侮辱する目的で日本国旗を傷つける行為を罰する「国旗損壊罪」を盛り込んだ刑法改正が、今国会で審議される可能性が出てきた。

 1月26日、自民党の議員有志でつくる「保守団結の会」所属の議員らが下村博文政調会長と面会し、「国旗損壊罪」を盛り込んだ刑法改正案を今国会に議員立法で提出するよう要請し、27日、下村氏は記者会見でこの提出を容認する考えを示したという。(自民・高市氏ら「国旗損壊罪」国会提出要請 外国国旗と同等の扱いを)。

 改正案は日本の国旗を損壊するなどした場合、2年以下の懲役か20万円以下の罰金を科す内容だと伝えられている。26日以降、各紙がこの件について報じている(日経新聞デジタル1月26日記事(共同通信)、朝日新聞デジタル 2021年1月28日記事、毎日新聞デジタル1月26日記事などを参照)。同趣旨の法案は2012年の国会で一度、提出され、廃案となっている。これをもう一度、ということだろうか。

 この件が芸術文化活動に影響してくることはあるのだろうか。

芸術表現にも影響?

 この件は、規定の仕方と運用によって、芸術表現を制約することになる可能性が大いにある。これについては、2012年の法案に関して出された日弁連の声明を見るのが一番だろう(刑法の一部を改正する法律案(国旗損壊罪新設法案)に関する会長声明

同法案は、損壊対象の国旗を官公署に掲げられたものに限定していないため、国旗を商業広告やスポーツ応援に利用する行為、あるいは政府に抗議する表現方法として国旗を用いる行為なども処罰の対象に含まれかねず、表現の自由を侵害するおそれがある。

 今回、法案が提出され、その内容が2012年のときと同じように損壊の対象となる国旗を官公署に掲げられたものに限定しない内容だった場合には、当時の日弁連の声明にあるとおり、処罰対象が一般市民の表現に大きく広がる。

 「国旗及び国歌に関する法律」に規定された図案に則ったもののみを対象とするならば、いたずら書き的な丸い円や「日の丸弁当」のようなものは含まれてこないが、それでも寸法として同法に該当する図案は、対象に含まれてくる。刑事罰によって守るべきものが、公の財産としての国旗や、公務としての国旗掲揚行事ではなく、国のシンボルとしての「日の丸」の表象そのものだった場合には、表現者が自分で作った布や紙の国旗や、作品中に描き込んだ国旗の表象が法適用の対象となる可能性も出てくる。そうした画像を切り刻んだり燃やしたり、虫に食われたような加工をした表現にも適用される可能性が出てくる。

 「侮辱する目的」でなければこの罪には該当しない、「侮辱」と警句や「批判」は異なるので、批判的表現にはこの規定は適用されない。したがって「表現の自由」には抵触しない。という反論がありうるのではないかと思うが、この反論は成り立つだろうか?

 まず、「侮辱する目的」については、運用次第で外側から認定される可能性がある。事情聴取や裁判実務で「このような表現が侮辱的だということは当然に認識できたはずだ、だから侮辱の目的があったと推定される」といった論法がとられた場合、この目的はあっさりと肯定されてしまうので、思いのほか歯止めにならない。

 そして刑法は全般に、運用者(警察や裁判官)の人的な良識に頼るのではなく、誰が運用・解釈しても同じ結果となるように法文を明確化し(罪刑法定主義、明確性の原則)、不要なものを刑罰の対象としない、とくに「表現の自由」にかかわる場合には「どうしても必要な場合に限る」という姿勢が求められる。この姿勢から言って、提案される見込みの国旗損壊罪は、刑法・憲法の基本原則から大きく外れたものとなる。

 例えば刑法175条の「わいせつ規制」のように、「芸術表現は例外」とする理論をつくってこの問題を切り抜ける道はあるかもしれない。しかし、丁寧に裁判理論を見ていけば違法ではないと言える事例でも、そこまでの知識のない一般人が「違法ではないのか」と糾弾をし始めると、会場運営者が萎縮して展示を中止してしまう、といったことがある。この種の法律ができることで、表現者や展示会場運営者の萎縮を招いたり、一般人からのバッシングを増幅させたりする可能性が高い。

 2019年に展示中止が起きた「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」についても、当時、国旗が作品の下部(床に接する部分)にあることについて、そうした非難のトーンでの取り上げ方がSNS上の一部の発言に見られた。国旗損壊罪が新設された場合、こうした傾向が強まることが予想される。そのような紛糾を招きやすい刑法規定をわざわざ設けることには、違憲の疑いをクリアするだけの社会的メリット(公共の福祉)は見いだせないだろう。

現行法のもとでも器物毀損

 ここで損壊罪の対象となる国旗を、官公署に掲揚されたものや式典用に掲揚されたものに限るとするならば、憲法違反となる可能性は低くなるが、新たな規定を設ける必要もない。そうした積極的な損壊行為は、現行のままで、器物毀損となり、また業務妨害(公務執行妨害)ともなるからである。

 また現行法のもとでも、国旗の表象が侮辱的に利用されることを防ぐ法制度は、知財法の中にすでにある。商標法を見ると、国旗や五輪マークなどは、個人や企業が商標登録を受けることができない(商標法第4条第1項第1号)。また、国旗又は外国の国旗の尊厳を害するような図案も、商標登録を受けることができないと解されている(商標登録の審査基準において、同条同項7号にあたると考えられている)。これは、ロゴマークなどの商標として商業利用することができないという限定的なルールで、個人の政治的表現や芸術表現には関係のないルールである。国家の名誉(尊厳)を害する国旗使用を抑制する手段としては、ここまでで十分なのではないか。

刑法92条「外国国章損壊罪」との違い

 日本では他国の国旗を損壊した場合に罰則を科す刑法規定があるが、日本国旗についてはそうした規定はない。要請をしたひとりである高市早苗元総務大臣や、要請を受けた下村氏は、このことを問題視している。

 しかし、すでに多くの論者が指摘しているように、この理解は間違っている。刑法92条は、「外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗そのほかの国章を損壊し、除去し、または汚損した者は、2年以下の懲役または20万円以下の罰金に処する」と規定している(この罪は外国政府の請求がなければ公訴できない)。この条文は、「日本と外国の間の円滑な国交」を守るために定められているもので、この筋からは、日本国旗の損壊について定めがないことは当たり前ということになる。

 したがって、92条とのバランス上、日本国の国旗への毀損にも処罰を設けるべきだという議論は成り立たない。そうすると、92条を離れた独立の立法目的として、国の名誉の保護や、国民の愛国心の涵養といったものが出てくることになる。今回の場合には、推進者の一人である高市氏が「名誉」に言及したと伝えられている。また、氏のホームページでは、「国旗が象徴する国家の存立基盤・国家作用」、「国旗に対して多くの国民が抱く尊重の念」が、侵害から守るべきものとしてあげられている。

 「名誉」については、以下の論説が、憲法前文にある「名誉」概念に照らした道理を的確に指摘している。

 >>国旗損壊罪を新設?「日本と外国の国旗で同じ罰」の問題とは…。憲法学者に聞いた

 付け加えるならば、「侮辱」や「名誉毀損」は現行法上も刑法犯として規定されているので、これを保護するための規定はあってもいいのでは、と感じる人もいるかもしれない。しかし、現行法上の「侮辱」や「名誉毀損」は個人に対する罪である。国家をこれと同列に人格化・実体化するべきではない。

 また、国旗が国家を象徴しているにしても、その国旗を毀損したからといって、国家が実力をもって転覆されるわけではない。そうした事柄は内乱罪(刑法77条)の規定があり、首謀者は死刑または無期懲役という重い罪が課されることとなっている。国旗という象徴の損壊を、それによって象徴されるものの損壊と同視するべきではない。

 むしろ、国家・政府に疑問や怒りなどを伝えたい人がいるとき、国家の作用やその下に生活する現実の国民に有形の実害を与えることなく、《表現》によってそれを表す行為は、まさに「表現の自由」として保護される理由がある。こうした表現が許容されることによって、現実の暴力に至らずに、克服すべき事柄への気づきがもたらされることもある。芸術表現の中には、そうした警句を含んだ表現が多い。

 自国の国旗を侮辱する表現を禁止・処罰することについては、アメリカ連邦最高裁が違憲判決を出している(Texas v. Johnson、1989)。この判決でアメリカ連邦最高裁は、社会がある観念を不快または好ましくないと考えているとの理由で、その観念の表現を禁止することはできない、とした。

 とくに芸術表現は、一般社会のなかで通用している文脈を敢えてひっくり返したり、自明性をはぎ取って見るといった営為を含むものなので、一般社会からの反感を買うリスクを常に抱えている。その反感は、「表現の自由」の一環として表明されるべきもので、その芸術表現を禁止したり、表出の場を塞いだりする理由にはならない。国が一方の人々の反感に追随して、一方の表現を塞ぐ政策をとることは、憲法に照らして認められないことが確認されたのである。その意味で、上記のアメリカの判決は、国旗をモチーフに使った表現に限らず、芸術表現の自由全般を考えるときに参考になる判決である。

憲法と「愛」

 さて、今回の国旗損壊罪に関する法案では表立って話題になっていないが、国旗・国歌に関しては常に「愛国心」の強制が真の動機ではないか、ということが論じられる。教育現場の式典での国旗掲揚と国歌斉唱の強制を見ても、積極的な妨害行為とはいえない消極的な不同調までが、(戒告とはいえ)懲戒の対象となっている。これを見ると、たしかにたんなる「尊重」を超えて、是が非でも「愛国心」を形成しようという意図があるのかと思わずにはいられない。しかし憲法19条で「思想・良心の自由」を保障し、13条で「個人の尊重」や「幸福追求権」を保障している日本国憲法のもとでは、国家が特定の価値観を、とくに愛の対象となるべきものを、強制的にでも刷り込むということは、憲法違反となる。

 では、日本国憲法は、愛や公共心を育てることのできない、殺伐としたものなのか。

 その理解は間違っている。「強制しない」ということは、否定を意味してはいない。日本国憲法は、「愛」を定義も強制もしていない。しかし、そのもとに暮らす人々が自発的に愛情に基づいた人間関係を形成したり、国や郷土に自発的な愛着を感じたりすることについては、その「自由」を妨害するな、という規定を随所に持っている。

 例えば憲法13条「幸福追求権」によって、恋愛やそれ以外の愛情関係による人間関係を形成することは、自由である。同じく、国を愛情・愛着の対象とすることも、各人の自由である。仮に万が一、日本国に自発的な愛国心を持っている人に対して、その心情を表現することを禁止する法律ができたりしたら、日本国憲法はこの法律を違憲とするはずである(ヘイトスピーチに当たる場合だけは例外となる)。憲法19条「思想良心の自由」に照らしても、道理は同じである。

 「愛」という言葉は、個人の信念や価値観と深く結びついており、人によっては宗教的信条と結びついているため、国や法がこれを定義するようなことはせず、各人に任せているのである。人によっては、愛すればこそ、容赦のない否定の表現をすることもありうる。シェイクスピア劇の「リア王」に登場するコーディリアを見れば、そのような「諫言」の愛がありうることがわかるだろう。

 ここで仮に、国旗を物理的に大事にすること──毀損的な表現をしないこと──が愛国心というものである、との定義のもとに、その愛国心を皆が持つようにという法強制が行われるとしたら、これは日本国憲法が足場としている「精神的自由」「人格の自由」の思考法に逆行することになる。

 法で強制しようのないものを法で強制すれば人心は離れ、法の実効性も薄れる。法治国家に必要な法への尊敬も失われていく。提案されている国旗損壊罪が、憲法に照らして許容できない法案となる可能性が高いことはもちろんだが、様々な現実の緊要課題を抱えた状況下で国会の限られた時間と労力をこのようなことに割くとなれば、提案者も国会も、国民の信頼を損ねるのではないか。国の「名誉」、つまり国が国民から尊重や社会的信頼を得る道は、国民の信託に応える仕事をすることである。

 最良の刑事政策は社会政策である、という法格言がある。社会政策が不十分な状態で、国政への不満を刑事罰で抑えようとしてはならないということを、提案者の方々に知ってもらう必要がある。